chocoxinaのover140

ハンドルは「ちょこざいな」と読ませている

【落ちのない話】まともなハンバーグ

Sガストのハンバーグがリニューアル記念に割引されていたので食べてみたのだが、これが思いのほか旨かった。
全体的にふっくらとして柔らかく、かつひき肉の食感も残っていて、ああハンバーグの旨さってこうだよな、ということを思い出す味だった。

これは、Sガストのハンバーグがそれだけ旨いというよりもむしろ、chocoxinaのハンバーグに対するハードルが下がりすぎていたがゆえの感動だったように思う。

そもそも、最後にまともなハンバーグを食べたのはいつだったか。

まともなハンバーグを食べられるところというと思いのほか限られていて、専門店かステーキハウス、それからいわゆる洋食屋といった辺りで、どれもそこかしこにあるタイプの店ではない。

この中で一番見かけるのはステーキハウスだが、そこでハンバーグを食べることはめったにない。
考えてほしいのだが、例えばちょっと財布に余裕があるからと浮ついた足取りでステーキハウスに入ったとして、その時注文するものといったら当然ステーキだろう。
ハンバーグなどというどこでも食えるものをわざわざ頼んだりしない。なにせステーキハウスに入ったのだから。

洋食屋も然りだ。洋食屋に行って食べたいものが何かは人によって違うだろうが、タルタルソースの乗ったエビフライや、気の遠くなるほど煮込まれたビーフシチューなどが並ぶメニューの中で、どこでも食べられるハンバーグはどうしても見劣りする。

我々はどこでも食べられるがゆえに、ハンバーグを軽んじてきた。

そうして、積極的に選ばれることのないたぐいのハンバーグばかり食べてきた。

たとえば、居酒屋のランチで、社食で、仕出し弁当で、スーパーの安売りで。

そうやって食うハンバーグは大抵ぺたんこにつぶれていて、カマボコに近いような食感をしている。

味のほうも、例えばお菓子の中に「イチゴ味」を名乗るまったくイチゴとは違う味のものがあるように、あれらのハンバーグはいわば「ハンバーグ味」としか形容できない、動物性たんぱく質と何らかのツナギが混然一体となった味がする。
そしてその上には、そのハンバーグ味を覆い隠すためか、やたらと味の濃いソースがかかっているのだ。

そういうものばかり食べるうち、我々はハンバーグのことを「大してうまくないもの」だとみなすようになっていったのだ。

 
ちかごろインターネットでは「さわやか」のハンバーグが人気だが、あの評判のよさの何割かは「久しぶりにまともなハンバーグ食った」という感動によるものなのではないか。

少なくともSガストのハンバーグだってそれなりに旨かったし、さわやかのために静岡へ行く前にいちど、近所のステーキハウスでまともなハンバーグを食べてみるのもよいかもしれない。

いやもちろんchocoxinaだってさわやか食べてみたいですけど。
静岡遠いじゃないですか。

【落ちのない話】戦略的フレンドリーさ

午前零時すぎ、毎晩飲んでいるヤクルトを切らしているのに気が付いて、雨のなか近所のドン・キホーテまで歩いた。

最少の歩数で10本パックのヤクルトを手に取ってレジに向かうと、レジ係のいつもの女性がなにやら無線でバックヤードと話し込んでいた。

他のレジをあたろうかと思い、周りを見渡したのだが、この時間ともなると他のどのレジも開いておらず、chocoxinaはしばらく待たされる恰好になった。

およそ20秒ほど、ほかを探すともなく待つともなくレジの1メートル手前でまごついていると、ようやく通信を終えた彼女がレジに通してくれた。

ヤクルトの入ったレジ袋とお釣りを順番に俺に寄越して、彼女は最後に「雨が強くなってるみたいだから、気を付けてね」と言った。

 
それを聞いたchocoxinaは内心驚愕した。
なんてスムースなリカバーなのかと。  
 

chocoxinaはこのドンキに毎日のように通っているし、レジの女性にも毎日のように会っている。このような声をかけられた経験が今まで全くなかったわけではないが、都合5年近く通い続けてそのようなことがあったのは片手で数えられる程度だ。

彼女はおそらく、客を待たせたことによるマイナスの印象をフレンドリーな接客でリカバーしようとしたのだ。ヤクルトのバーコードを読み込んでから什器がお釣りを吐き出すまでの間に、そうすべきだと判断したのだ。

ここまで戦略的にフレンドリーさを出すことのできる人がいるのか、と少し空恐ろしいものを感じながらも、chocoxinaはおおむね彼女の思惑通り機嫌よく家路についた。 どれだけ戦略的であろうが、フレンドリーにされることは気分のよいものである。

 
・・・とここまで書いて、そういえば過去「戦略的にフレンドリーな接客」を受けて必ずしもいい気分ではなくなったケースがあったことを思い出した。  
 

去年の今頃、大流行していたPokemon GOのために周辺機器を買いにポケモンセンターポケモングッズ専門店)に行ったときのこと。

お目当てのPokemon GO Plusを手に取りながら店内をうろついていると、当時のポケモン最新作に関連するグッズが目についた。

最新作(サンムーン)の中で一番かわいいと思っている女の子(スイレンちゃん)のピンバッジで、それもキャラクターのイラストそのものではなく、彼女を象徴するアイコン(キャプテンのあかし)を模したものだった。例えばバッグにつけても(つけませんけど)、普通の人にはゲームの美少女に関するものだとはわからないたぐいのものだ。

chocoxinaはほぼ反射的にそのピンバッジを手に取ってレジに向かった。

レジには行列ができていて、そこに並んでいる間、レジの店員さんたちがお客――ポケモン好きの親子連れや女性だ――と常に一言二言ポケモンに関する会話をするのを見ることができた。

行列はことのほかさくさくと進んでchocoxinaの番になり、chocoxinaより少し若いくらいの女性店員のレジに呼ばれた。

彼女はPokemon Go Plusとピンバッジを順番にレジに通し、合計金額を伝えた後、chocoxinaに向かって
スイレンちゃん、お好きなんですか?」
と聞いた。

 
お前、お前それ、そのピンバッジ、そういうのバレたくない人が買うタイプのやつじゃん。

スイレンちゃんがでかでかと描かれたグッズはたくさんあるなかで、あえて地味なピンバッジ買ってる客じゃん。

客とは必ず世間話しろってマニュアルに書いてあるのかもしれないけど、人の萌え豚的側面に言及しない優しさってあるじゃん。やめてよ。  
 

――という気分になって大変恥ずかしかったというだけの話です。本日は以上となります。

【落ちのない話】「いつもの濃いメンツ」という概念。あるいは前職の愚痴

このほど転職をした。

 

前職ではスマートフォンゲームの運営をしていたが、現職ではwebメディアのライティングをすることになった。

 

chocoxinaは前職では上長につまらないやつだと思われていたが、現職では愉快なやつとして通っているようだ。

 

前職の上長は、自分のことを面白いと思っている人間のようだった。

彼は愉快な人だったし、彼のことを「面白い人」ということに抵抗はない。

彼は、会話の中に内輪ネタや、職権を濫用した無茶振りなどをよくはさみ、また人の面白さを判じることの多い人だった。

そういうタイプの人たちが「面白い人」を自称することを快く思わない人も多いだろうが、chocoxinaはその点に目くじらを立てようとは思わない。

日常会話の中の他愛のないジョークが、例えば芸人のネタのようによくできた面白さを伴う必要はないと思っているし、どんなによくできたジョークよりも「山田がうんこ漏らした」という一言のほうが面白くなるのが日常のコミュニティというものだ。

 

そういった認識を前提としてここで述べたいのは、そういう人たちが他人を判じるときの「面白いやつ」「面白くないやつ」というのは、「気が合う」「気が合わない」以上の何等の意味もない、ということだ。

彼らに面白いと言われたからといって例えばジョークのセンスがあるわけではないし、彼らにつまらないと言われたからといって、その人にジョークのセンスや、あるいは人間的魅力がないわけではない、ということだ。

 

前職の上長は「俺は面白い奴しか採らない」と言ってはばからなかった。被雇用者としてはこれを間違っても「人間的魅力のあるやつしか採らない」のだろうという風に解釈してはならない。ただ「俺とウマが合う奴しか採らない」と言っているに過ぎないのだ。
(ときに、なぜそんな上長のもとで「面白くない」chocoxinaが働けていたのかといえば、ひとえに過去同社に派遣で入っていて実務経験があったからに過ぎない)

 

彼が自分の言う「面白い」を「ウマが合う」の意味だと正しくメタ認識できていたかはわからない。というよりおそらく彼は自分が「ジョーク」のセンスを通じて相手の人間的魅力みたいなものを判断できると思っているのではないかと思う。

その誤謬は、Facebookの大学生や飲み屋の常連が、気の合う仲間を「いつもの濃いメンツ」と呼んでいるあの感じを思い出させる。

彼らはきっと、自分の隣の席で人知れず芥川賞作家が独りで飲んでいたとしても、彼を「つまらない奴」だと思うことだろう。人の面白さを簡単に判断できると思うことがそもそもつまらない大学生のような発想なのだ。


ともかく、自分は今のところ現職で上長から愉快なやつだと思われている。その評価が、「『うちの濃い部署』の仲間に入れてもらえたこと」を意味するのだとしたら、転職はおおむね成功といっていいだろう。ウマが合うことは何より大事である。