chocoxinaのover140

ハンドルは「ちょこざいな」と読ませている

【落ちのない話】おみくじ

どうしようもなくツイていない時というのは、自分が「ただ単にツイていないだけ」だと認めるのに苦労する。
客観的な事実――今この身に降りかかっている不幸がさながらTRPGファンブルのように脈絡なく訪れただけのもので、しかも次振るダイスがまたファンブルしない保証もない――というのは、弱った心にとってあまりにも毒なのだ。
そういうとき人は、例えば陰謀論を紡いで自分に不幸をもたらす敵を見出したり、とにかく自分が悪いに違いないと思い込んで終わりなき自己嫌悪に陥ったり、人知を超えた存在と取引をして、次こそ不運に見舞われないよう約束を取り付けたりする。

去年の夏から1年ほどはchocoxinaもずっと不運続きの状態で、そのときの自分は自己嫌悪を遠ざけるため、神を頼るようにしていた。
職場近くの神社で、プロトコルに沿って手水をつけながら心を落ち着け、たた漠然と平穏無事を願って賽銭を投げ、機械が出すおみくじを引く。
耐えがたい不運に見舞われたり、不運が強烈に予感されたり、ただ漠然と悲しかったりするたびに、それを繰り返した。

そのとき引くおみくじが多少いい結果だったからといって、すぐさま心が落ち着くことはなかった。
おみくじというのは、たとえ大吉でも一つや二つ我々をいさめるようなことが書いてあるもので、弱っているときにはそういう所ばかり目につくのだ。
それでも、おみくじを引くのをやめるつもりはなかった。
思うにあれは、一種のカウンセリングだったように思う。
実りのない仕事や、ままならない人間関係、そういったものについての言葉にならない気持ちを境内に持っていくと、芯を食ったような食っていないようなアドバイスがもらえる。
人に相談するのがたまらなく苦手な自分にとって、神社はキャバクラやカウンセラーよりもずっと暖かい存在だった。

そんな自分が近頃とんとおみくじをひかなくなったのには理由がある。
今年の夏の終わりごろ、転職先が決まった自分は、普段よりいくぶん晴れやかな気持ちで神社に赴いた。
転職後の平穏無事と、ちょっと図々しい諸々をお願いした後、いつものようにおみくじを引くと、それまで見たこともない「凶」が出てきた。
それを見た自分自身は、拍子抜けするくらい心穏やかだった。
あはは、凶だって、と笑いすらした。
そんな自分に気が付いたとき、ああ、もうおみくじをひかなくても大丈夫だな、と思ったのだ。

そうして無事転職を果たし、割合気分よく仕事をしていたchocoxinaであるが、このところやはり不運続きだなあと思いながら当時を思い返すと、夏に引いた「凶」のおみくじの内容が一つずつ実現されているように感じられてきた。
自分はいま、神をよりシビアに信じ始める自分自身を止められないでいるし、またおみくじを引きにいきたい気持ちが芽生え始めている。

【落ちのない話】つまんねえ奴になりたい

学生のころ、マイナージャンルの打ち込み音楽を作っていた。
マイナージャンルというのは当然狭い界隈なので、そこでは大なり小なりやっかみ、批評、非難、陰口その他もろもろが繰り広げられていたのだが、その中でもどうしても許せなかった言い回しがある。

「あのDJは兼業だからサウンドに面白みがない」「あのトラックメーカーは彼女ができてからつまらなくなった」というようなものだ。
幸か不幸か、自分がそういったたぐいの批判にさらされることはなかったが、それでも誰かがこんな風に言及されているのを聞くたびに歯噛みする気持ちだった。

彼らは、お前たちを面白がらせるために人生を生きているわけではない、と言ってやりたかった。

あるDJが仕事を持って、その結果プレイが少し凡庸になったなら、彼はきっとレアグルーヴを掘るよりも大切なことを見つけたのだ。
あるトラックメーカーに彼女ができて、その結果ロクに作品を作らなくなったなら、きっと彼はもう我々なんかにちやほやされる必要がなくなったのだ。
それだけのことを悪しざまに述べて、まるで彼らが幸せになったことで人間としての価値を落としたかのように責めるのは、聞いていて我慢ならなかったのだ。

繰り返しになるが、自分は幸か不幸か、そういった類の批判にさらされることはなかった。
それはchocoxinaというトラックメーカーがそもそも注目されていなかったおかげでもあるし、chocoxinaの身に明かな幸福が及ばなかったおかげでもある。
自分の学生時代は決して幸福に満ちたものではなかったが、だからといって作ったトラックに特別の魅力がこもってくれたためしは無かった。
自分は今でもごくたまに音楽を作るし、ちょっとした書き物(うんとよく言えば表現活動だ)を仕事にしているから、もし今自分に何らかの大きな幸せが転がり込んできたら、そういった表現物は今よりも更につまらないものになるだろう。

それでも、自分はつまらない人間になりたいと思う。

自分の身に起きた幸福を花に喩え、幸福をもたらしてくれた何かを太陽に喩えてはばからない詩人になりたい。
安物のギターを買って、てらいのないコード進行と耳慣れた言葉で人生のすばらしさを歌い上げる歌手になりたい。
仕事中、ある不運な人の半生について原稿を書いて、その筆の乗りようを職場の先輩に褒められながら、そんなことばかり考えている。

ラーメン屋の威勢と偏見

先日入ったラーメン屋がかなり威勢のよい店で、戸をくぐると結構な大音声で
「せいー!!!」
という挨拶が聴こえてきた。

せいー。

「いらっしゃいませ」を「せ」まで略した上に、元々ありもしなかった「い」の方を強調してすらいる、何とも豪快な挨拶だ。
ただそのときchocoxinaが何より驚いたのは、その豪快さを更に強調するかのような、発音の明朗さについてであった。

威勢のよさを重視するあまり発音が雑になる、というのは、ラーメン屋に限らずよくあることだろうと思う。
しかし、もともと「いらっしゃいませ」だったものを発音する都合上、大抵は「いらっしゃいま」にあたる部分の面影が残っているものだ。
chocoxinaが今まで遭遇してきた威勢のいい挨拶も、殆どが「しゃせーい!!!」くらいのものだったし、そこから更に略されることがあるとしても、せいぜい「ぃゃせーい!!!」あたりが関の山だろう。

しかしあの店は違った。
彼らはあまりにも明確に「せいー!!!」と発音していた。
「せ」の部分が音として発される前から口を"S"のかたちに構えていることがありありと分かるような、サ行の摩擦音をたっぷりと含んだ「せいー!!!」だった。

これはいいものを聞いたぞ、と思った。
ここまで潔く省略された「いらっしゃいませ」は聞いたことがなかった。
これは「いらっしゃいませ史」に残る発見かもしれない、と思いながらカウンターで「中盛りほうれん草増し油少なめ」の注文を終えると、ある張り紙が目についた。

せいー。

彼らは端から「いらっしゃいませ」などと言う気はなかったのである。
彼らはそのまま、我々に「せいー」と伝えるつもりで「せいー」と発音していたのだ。
何だよ「せいー」って。ふざけやがって。

ラーメンは美味しかったです。