chocoxinaのover140

ハンドルは「ちょこざいな」と読ませている

ボードゲームソムリエの本当の失敗と、人狼のあやうい魅力の話

 

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こんなエントリが話題ですね。
人狼そのものはもとより人狼プレイヤーにまで等しく牙をむく大変刺激的な内容で、twitterでの反応を見るに当該ブログ史上例のないアクセスを記録しているものと予想されます。

記事に対する反応は気になる人に検索して頂くとして、おおきな傾向としては
人狼の問題そのものについては共感できる
人狼が嫌いだからといってプレイヤーまで悪く言うのはどうか
こんなところでしょうか。

chocoxinaとしてはそれぞれの観点について書きたいことが沢山できちゃったのでまとめておきます。


chocoxinaのポジション

こういうのって中身を書いてれば自然と主張できるたぐいのものの筈で、それをわざわざ「一部は支持する、残りは支持しない、みたいなスタンスを理解してくれない二元論がお好きな方々」に備えるためだけに章を用意するのも癪なんですが、それはともかくこのエントリでは

前フリ
人狼はルールに無視できない問題を抱えている
・しばしば問題になる「迷惑な人狼プレイヤー」についても、ある程度は人狼そのものの問題に還元できる(上記エントリの「人狼が好きな奴なんてこんな奴だ」なんていう主張を、ごく限られた文脈でのみ認めることにもなる)

主題
・とはいえ、仮にもボードゲームソムリエを名乗る人間が、先に示したようなエントリを書くことについて断固として支持しない
人狼の問題は、ファンが感じる人狼の魅力と表裏一体であり、やり方如何で十分楽しいゲームになりうる

みたいなことを主張していきます


人狼というゲームが抱える問題

chocoxinaは人狼について「無視できない問題を多く抱えた、優れているとは言い難いゲーム」であると考えています。
人狼のここが嫌だなって話 - Togetterまとめ)こんなまとめなんかをはじめ、各所でよく言われることとしては
・10人かそれ以上のプレイヤーと、ゲームに参加できないGMを必要とし、プレイの物理的障壁が高い。
・初期に脱落するプレイヤーがどうしても発生し、十分に楽しめないことがある。
・特に「寡黙釣り」としてセオリー化されているように、ゲームに不慣れなプレイヤーは早々にゲームから除外されやすい。
・上記寡黙吊りなどのセオリーが発達しており、初心者がゲームについていきにくい
・そのせいで初心者がセオリーに通じたプレイヤーに指示されるまま動くだけのゲーム体験になったり、残人数の塩梅で重要な決断を迫られたり、それによって勝敗が決した責任を強く感じさせられることがある。
・そういうことを極端にやらかすプレイヤーに遭遇しがちである。
こんなところかと思います(人狼ファンの方はこれら一つ一つについて思うところがおありかと思いますが、もう少しお付き合い下さい)。
こうして並べてみると、上から下へ見ていくにつれ「システムの問題」から「プレイヤーの問題」になっていく風に感じられるかと思うのですが、ここでchocoxinaとしては「上記のうちプレイヤーの問題とされることについても、人狼というゲームのルールによって引き起こされている」と主張するわけです。


初心者と上級者

人狼は、初心者と上級者が一緒にやるのに必ずしも向かないゲームだ」ということについては、プレイ経験のある方にならおおむね納得していただけるかと思います。
ほぼ全てのアナログゲームがデザイン段階から前提としているやり方に従い、皆がその場の勝利のためにプレイをする限りにおいて、村人は積極的に情報を開示しない初心者を早めに吊り、人狼は多少の詭弁になびいてくれるかもしれないプレイヤーを大事に取っておくことが「正解」であることは否定のしようがなく、場がそのどちらかに強く傾けば、初心者がなにもできず初夜で釣られたり、逆に勝敗の(大抵の場合負けの)責任を一手に負わされたりするのは無理からぬことです。

そんな不幸な卓が発生してしまった場合、どこに問題があったかといえば「上級者のいる卓に入ってきた初心者・その初心者を呼び込んだ上級者」だともいえるわけですが、これももとはといえば「人狼が十余人ものプレイヤーを集めなければいけないゲームである」ために起こる問題とも言えます。
初心者のみ、上級者のみを十人以上集めることの難しさは想像に難くなく、人数の都合でやむなく練度に開きのあるメンバーを参加させてしまう人狼ファンを責めることはできません。


難しさと簡単さ

先に挙げたような不幸な卓が発生するもうひとつの理由として「セオリーの蓄積、共有が大切なゲームである」というのもあります。
これについては「プレイヤーの問題かルールの問題か」という視点から少し離れて(もとよりどちらの問題とも言えるかと思います)、「人狼の一つの問題はセオリーが発達したことでも、そのセオリーが難しいことでもなく、セオリーが実は簡単であること」なんじゃないかという、ツカミ重視かつ本エントリ中で最も脆い話をします。

例えば、人狼の一つの戦略として「ローラー」と呼ばれるものがあります。
人狼ファンの皆さんには改めて説明することでもなく、また筆者の練度の問題で誤りのある記述になっている可能性が怖いのですが、要は
「ゲーム中人狼は自分が村人であると信頼させる必要があり、そのために多くの場合『特殊な力を持った村人』を騙るので、村人としては自分がそういう村人だと主張する人を全て処刑してしまうことで、本物もろとも確実に狼を処刑する」
というような戦略です。

で、この戦略、もちろんいかなる時でも行えばいいというものでもなく、そういう作業の最中に村人が敗北条件を満たさぬように気をつける必要があります。
具体的には、今の村の総人数と、村に残っていると思われる狼の人数を考えて、昼に村人か狼のどちらか一人、夜に村人一人がいなくなると考えて、最悪の場合に村人の数が狼の数と一緒にならないように計算しなければなりません。

こう書くと(特に人狼に不慣れな人には)難しく聞こえるわけですが、実はそのためにやることといえば、たかだか二桁の引き算を数パターンくらいのものなのです。
こういった「とっつきにくいけれど、分かってしまえばなんてことのない」セオリーが多いために「村n人で狼mとすればローラー効くから・・・」みたいなハイコンテクストなやりとりが発生するといえます。

これが例えばもう少し複雑な計算を要するセオリーであれば、検算を募ったり、パターンを数えてもらったりするために考えていることを逐一報告する必要が生じ、結果そのセオリーに明るくない人にも大筋が共有され、ともすれば口を挟む余地さえ増えるために、少なくとも現状よりは置いてけぼりにならずに済むと考えられるわけです。


そして、この難しさと簡単さという話のもう一つの尺度として、上で前提としていた「考える量が多いか少ないか」の他に「正解が一意に定まるか否か」という話があります。ありますというか、むしろこちらがこの主張の本分なのですが。

先に挙げたローラーは「今残っている人狼を何人と見積もるか」が大事になってくるために、正解が一意に定まらない(=難しい)と言えるのですが、とはいえ「どう見積もってもローラーが成功する」というケースもかなりあり、そういうときは無論ローラーするのが大正解ですから、正解が一意に定まる(=簡単な)問題だともいえます。

で、そういう「簡単な」問題が解かれるとどうなるか。村人は当然ローラーを推し、人狼はどんな詭弁をこねてでもローラーを阻止し、そして初心者は「十分な説明を受けていない(何故なら上級者には簡単だから!)セオリー」と「もっともらしく聞こえる詭弁」の板挟みになり、そこでしばしば重要な判断を誤り、指差す方向のわずかな違いで自陣営を負かし、時には心ない仲間から「当然の選択を誤った」と謗られるわけです。最初に挙げたエントリで言及されているケースとよく似ていますね。

仮にここで、解かれた問題が簡単でなければ。つまり、ケースaの場合は行動Aを、ケースbの場合は行動Bを取れば良いが、今がabどちらのケースかはたかだか確率的にしかわからない、とか、行動Cはハイリスクハイリターンだが行動Dはローリスクローリターン、のような結論だったとすれば。初心者が強い主張同士の板挟みになることも、選択の結果を咎められることもなかったでしょう。


問題のあるプレイヤー

と、本筋から若干離れた上にいちばんあやうい主張を終えたところで、見出しの通り問題のあるプレイヤーの話を。
私は幸運にして、そういったプレイヤーと遭遇したことはたかだか一二度程度(あまりやらないのにその位は遭遇しているとも言う)なのですが、世の中には
・声の小さいプレイヤーに自分のやり方を強制する
・判断を誤ったプレイヤーを謗る
などなどあまりご一緒したくないプレイヤーが結構いるようで。
人狼ファンの皆さんとしては「こういうプレイヤーに会ったから人狼嫌い!」なんて意見を見かけた日には「いやいやそれは人狼じゃなくてプレイヤーの問題だよ」と言いたくなる、もしくは言っちゃうこともあるかと思うのですが、これもまた「そういう行いをルールが抑制していない」ことが原因の一つと言えるのではないかという話です。

迷惑なプレイヤーと関係のある人狼のルール要素といえば「チーム戦である」ことが最も大きいでしょうか。
簡単に言えば、人狼がチーム戦であるために、チームメイトは迷惑なプレイヤーの「道義的な問題がありつつもゲーム的に正しい」行いを咎めにくいわけです。

アナログゲーム中にプレイヤー間で行われる会話は、大きく「フレーバートーク」「議論」「交渉」の三つに分けられ(るよね?)(異論のある方もここは本筋でないのでひとまず目を瞑って頂くとして)、人狼はその中でも「議論」のゲームと言えます。
例えばある村で「喋らない素人を吊れ」とか「素人は大人しくプレイヤーBを指名しろ」とかいう【主張】がなされた場合、それに応じる言葉として求められるのは【反論】です。
しかし、もとより「ゲーム的に圧倒的に正しい」主張をしている、あるいは先述の「簡単な問題」を解いたプレイヤーに、そう簡単に反論できるでしょうか? 我々に求められるのは初心者のゲーム体験を向上させつつ、迷惑なプレイヤーの主張と少なくとも同等に陣営のためになる提案です。そんな解決が叶わず「初心者にはちょっと泣いてもらって、波風立てずになんならゲームにも勝つ」選択をしてしまう人を私は責められません。

例えば人狼が個人戦であったなら、あるいは議論でなく交渉のゲームなら、どんな正論であれひとの心象を損ねるのは文句なく悪手であり「ルールがプレイヤーを抑制している」といえます。ただ人狼はそうではなく、道義的に大間違いでゲーム的に大正解なやり方が存在してしまうわけです。
無論これは人狼に限った問題ではなく、例えばパンデミックという、プレイヤーが協力してゲームシステムと勝負するゲームにおいても、手練れのプレイヤーが全てのプレイヤーの行動を強制する、いわゆる奉行問題なんかがしばしば生じるといいます。
とはいえ「他のゲームもそうだから問題ではない」かといえばそうではなく、それこそパンデミックで手札の情報共有をほぼ無制限に許しながら手札を非公開としているのは、奉行問題を問題と認め、対処しようとしたからだと言えるでしょう(デザイナーさん本人もインタビューでそんな話をしてた気がするんだけど、どこだったかな・・・)。
また人狼については、先に述べた「簡単な問題の問題」などもあいまって、より顕在化しているとも言えるかと思います。


と、ここまでの長くも刺々しい前フリを経て、ようやく主題です。


ボードゲームソムリエはいかに失敗したか

翻ってくだんのエントリです。
chocoxinaの立ち位置としては「人狼の欠点については認めつつも、プレイヤーまで非難する姿勢については断固指示しない」といったところで、特に目新しさはないです。

人狼が好きな奴は自分が楽しむことしか考えてない」的な主張についても「議論と連帯責任のゲーム」を好むこととある種攻撃的な形質との好相性について認める面はありつつも、表面的にでもコンテクストを共有させることで人狼のキモを体験させる初心者卓の提案(人狼初心者村を立てたときのことについて - 雲上四季)や株式会社人狼にみられる心構え(人狼ゲームをやってるときに、殺伐とした空気にする奴は絶対にモテない。 | しらさかブログ)などを前にして、人狼ファンをひとくくりに語ることを到底容認できません。

あんまり向こうのカウンタ回すのも気分が良くないので記憶を頼りの要約に留めますが、かのボードゲームソムリエが人狼を嫌いになった理由として語られていたケースは
「最終版残り三人、村人の筆者と客観的に確実に狼である男、初心者の村人女性、という状況で、正論を述べる筆者と詭弁を述べる男の二者択一を迫られた女性が、最後に判断を誤って泣いてしまう」というようなものだったでしょうか。これ、私が改めて言うことでもないんですが、ソムリエの落ち度も到底無視できないんですよね。

これから主張する結論の前フリとして擁護するなら、このときのボードゲームソムリエも「人狼のルールに呑まれた被害者」と言えなくもないんですよ。
自分は間違いなく正しい、先に述べたところの「簡単な問題」を解いてる、という意識が、明らかに間違った、女性をだまくらかして勝利を掠め取るための詭弁を前にして「感動を与えるエンターテイナー」を直情的にさせ、結果として女性を泣かせてしまう。人狼が議論と連帯責任のゲームであるが故の悲劇とも言えます。
ただし、この悲劇は、ボードゲームソムリエが人狼のこういった問題を認識していれば回避できたと言えます。ここで例えば、あのケースでボードゲームソムリエが直情的になってしまうことを無理からぬ心のはたらきだと擁護しても、少なくとも当人は「自分の責任」だと認識しなければならなかった。彼が理性ある大人であれば。

具体的には、語気を弱めるだけでよかったのです。しつこくも、どうやらエントリの書き口からして事件の前段階でなかなか苛立っていたらしいことを加味し、あの状況で語気を弱めることの困難さを最大限認めたとしても、本人には「語気を弱めるだけで解決できた問題」だと認識されなければならなかったと繰り返します。

それができなかった、また今後もできないと認めるのであれば、達するべき結論は「自分には人狼の魅力を伝えることができない」といったところであり「人狼は感動の奪い合いであり、プレイヤーは皆どうかしている」というものではない筈です。

また、もう少し自身を客観視できるのであれば、ゲームの後「感動を与えることを信条とする自分が、そこに気を回せなくなる位議論に熱中した」事実を取り上げ、かように心を動かす、ある種問題でありつつも魅力的な人狼の側面について気づくきっかけになったかも知れないわけで、chocoxinaとしては、ボードゲームソムリエ最大の失敗はここ(自分がゲームに心動かされた貴重な体験を活かせていないこと)だろうと思っています。


ボードゲームソムリエはどうするべきだったか、或いは欠点と背中合わせな人狼の魅力

先にも軽く触れたように、例えば人狼の「(議論の体を取るために)ともすれば人を泣かせるくらいに白熱してしまう」という欠点はそのまま「(現実では滅多にできない)白熱した議論を体験できる」という長所たりえるわけです。
それ以外にも大人数が必要? 大の大人が大人数であそぶ貴重な体験のきっかけになるじゃないですか。
脱落があるからつまらない? 死ぬこともりっぱな仕事であると理解できれば楽しくなるらしいですよ。私はまだその域に達していませんが。
セオリーが多くてとっつきにくいし、理解するとつまんなくなりそう? 少しの勉強で込み入った話にも仲間入りできるってことじゃないですか。それに、コンテクストを十分に理解したなら箱庭の人狼箱庭の人狼―werewolf syndrome― « 人狼フリークの集い「楽々亭」にようこそ!を遊べるオマケもついてきますよ。
ほんの少しの間違いで陣営負けの責任を負わされるのが怖い? 現実の同じシチュエーションよりずっと安全にスリルを味わえるじゃないですか。
迷惑なプレイヤーがいる? それはちょっと・・・

といった感じで、人狼は欠点だらけだと言いつつも、むしろそこが愛されているのであろうことを認めざるを得ないんですよね。
趣味ならまだしも、アナログゲームでゴハンを食べる気なら、苦手なゲームの楽しみ方も知っておくべきだったんじゃないのか、といったところで、このエントリ全部iPhoneで打ってて疲れちゃったので仕舞いにさせて頂きます。