chocoxinaのover140

ハンドルは「ちょこざいな」と読ませている

【落ちのない話】「いつもの濃いメンツ」という概念。あるいは前職の愚痴

このほど転職をした。

 

前職ではスマートフォンゲームの運営をしていたが、現職ではwebメディアのライティングをすることになった。

 

chocoxinaは前職では上長につまらないやつだと思われていたが、現職では愉快なやつとして通っているようだ。

 

前職の上長は、自分のことを面白いと思っている人間のようだった。

彼は愉快な人だったし、彼のことを「面白い人」ということに抵抗はない。

彼は、会話の中に内輪ネタや、職権を濫用した無茶振りなどをよくはさみ、また人の面白さを判じることの多い人だった。

そういうタイプの人たちが「面白い人」を自称することを快く思わない人も多いだろうが、chocoxinaはその点に目くじらを立てようとは思わない。

日常会話の中の他愛のないジョークが、例えば芸人のネタのようによくできた面白さを伴う必要はないと思っているし、どんなによくできたジョークよりも「山田がうんこ漏らした」という一言のほうが面白くなるのが日常のコミュニティというものだ。

 

そういった認識を前提としてここで述べたいのは、そういう人たちが他人を判じるときの「面白いやつ」「面白くないやつ」というのは、「気が合う」「気が合わない」以上の何等の意味もない、ということだ。

彼らに面白いと言われたからといって例えばジョークのセンスがあるわけではないし、彼らにつまらないと言われたからといって、その人にジョークのセンスや、あるいは人間的魅力がないわけではない、ということだ。

 

前職の上長は「俺は面白い奴しか採らない」と言ってはばからなかった。被雇用者としてはこれを間違っても「人間的魅力のあるやつしか採らない」のだろうという風に解釈してはならない。ただ「俺とウマが合う奴しか採らない」と言っているに過ぎないのだ。
(ときに、なぜそんな上長のもとで「面白くない」chocoxinaが働けていたのかといえば、ひとえに過去同社に派遣で入っていて実務経験があったからに過ぎない)

 

彼が自分の言う「面白い」を「ウマが合う」の意味だと正しくメタ認識できていたかはわからない。というよりおそらく彼は自分が「ジョーク」のセンスを通じて相手の人間的魅力みたいなものを判断できると思っているのではないかと思う。

その誤謬は、Facebookの大学生や飲み屋の常連が、気の合う仲間を「いつもの濃いメンツ」と呼んでいるあの感じを思い出させる。

彼らはきっと、自分の隣の席で人知れず芥川賞作家が独りで飲んでいたとしても、彼を「つまらない奴」だと思うことだろう。人の面白さを簡単に判断できると思うことがそもそもつまらない大学生のような発想なのだ。


ともかく、自分は今のところ現職で上長から愉快なやつだと思われている。その評価が、「『うちの濃い部署』の仲間に入れてもらえたこと」を意味するのだとしたら、転職はおおむね成功といっていいだろう。ウマが合うことは何より大事である。