chocoxinaのover140

ハンドルは「ちょこざいな」と読ませている

【Getting Over It】我々はBennett Foddyに怒らねばならなかった

Getting Over It with Bennett Foddy(iOS版)をクリアした。

store.steampowered.com

Getting Over It

Getting Over It

  • Bennett Foddy
  • ゲーム
  • ¥600

Getting Over Itとは?

このゲームをご存知ない方のために簡単に内容を説明すると、
・下半身が釜に入ったおっさんになってハンマーを振り回しながら山を登るんだけど
・ハンマーの独特すぎる操作感とえげつないステージ構成が相まって
・ちょっとでも操作をミスると容赦なくふもとまで戻される
という、ほとんど苦行じみたゲームだ。
その難易度は理不尽なほど高く、昨年末に韓国の有名ゲーマーが12時間の配信プレイの末にスタート地点まで戻され、そのショックで幼児退行する様子が撮られた動画が結構なブームになったそうである。

ところでこのゲーム、さっきの韓国ゲーマーの動画などの影響で「やると精神が崩壊するゲーム」としてもっぱら評判らしい。
Steamのレビューを見ても、腹が立って開始数十分で返金しただとか、むしろたるんだ心を鍛え直すのにちょうどいいだとか、そういうなんだかおどろおどろしいことが沢山書いてある。
近頃はやりのバーチャルYoutuber達もこぞってこのゲームに挑戦し、あるものは怒り、またある者は早々に諦めている。 じゃあ、そんなゲームをクリアしたchocoxinaは、いったいプレイ中に何度発狂したんだ、と思われる方もいるかもしれないが、個人的にはそこまで心を乱されることはなかった。 ゲーム中、進捗の半分ほどが無駄になったとき(既プレイ者向けに言えば、吊るされた桶のところから蛇の下をくぐり抜けて滑り台まで落ちたとき)には流石に大きめのため息が数度出たが、感情の起伏としてはその辺りがピークだったように思う。

そういう心持ちでゲームをクリアした自分を顧みたときに、例えば、アンガーマネジメントが良くできていたな、とか、意外と根気があるのだな、などと自身をほめてやることもできなくはないのだが、個人的にはどうもそういう気持ちになれないのである。

あのゲームに対する怒りは至極正当である

Getting Over It(通称、窯登山)がプレイする者を怒らせ、その心を折ることができるのは、プレイヤーの積み上げてきたものを台無しにしてくるからだ。
画面右にそびえたつ山肌のわずかな障害物にかろうじてハンマーを引っかける、という操作をほんの少し間違えると、窯の中の男は山を叩き、進みたいのと真逆の方向に飛んでいくことになる。
左に大きく飛んだあと素早く右の障害を掴め、という地点の左側には、スタート地点まで続く大穴が開いている。
ゲーム中になにかこちらに対して積極的な働きかけをしてくることこそないが、このゲームは明確な意図をもって、プレイヤーにとって起きて欲しくないことが何度も起こるように設計されているのだ。

こういった困難に相対したとき、ほとんどの人はゲームに対して正しく怒ることができる。
例えばある人は、画面の中の唯一のキャラクターである窯男に対して、なぜ思い通りに動かないのだと怒る。
別の人は、障害物そのものに対して怒る。
また別の人は、この悪意に満ちた世界を作り上げた製作者に対して怒る。
それは極めて自然な反応であるように思える。

自分は、それらへの怒りをどうにか抑えたわけではない。
そもそも怒ることができなかったのだ。

自己責任という正論

このゲームにおいて、障害を登るための方法は明らかであるか少なくとも推測可能で、またそこでどういうミスをした場合に落下させられるかは十分に予測できる。
だから、ミスによって大きく落とされたとしても、気のゆるみを言い訳に十分な備えをしなかった自分が悪い。

このゲームにおいて、画面上の誰も自分のプレイを邪魔することはない。
だから、そもそもミスは誰の責任でもなく、100%自分が悪い。

このゲームにおいて、プレイヤーが大きな失敗を犯すたび、作者の声で過去の偉人たちの失敗に関する名言が読み上げられる。
我々を励ますような内容しか語っていないのだから、もしそれによって気分を害したとしても、ひねくれた捉え方しかできない自分が悪い。

そもそも、このゲームをプレイし続け、クリアしなければならないなどと誰が強制したわけでもない。
だから、プレイ中に感じる不快についてはすべて自分の責任である。

ほかの健全なプレイヤーたちが正当に怒るような場面に出くわすたび、こういう考えが怒りに先んじて頭をよぎる。
そして、ふう、と一つだけため息をつき、なにか「怒りだったかもしれない感情」が心の奥底に閉じ込められている気配を無視しながら「一度クリアした箇所は何度でもクリアできる」「今の場所の失敗の理由が分かったのは大きな進歩だった」などと己に言い聞かせつつまた山を登るのだ。

それは一見殊勝で、健全で、誉め称えられるべき考え方のようだが、自分はまったくそうは思わない。
本来、たかがゲームでまで不要な自己責任論で己を縛り、自身を責め続ける必要などないはずなのだ。
たかがゲームでまで粛々と自分の問題をかえりみ続けるような、いわば自虐的な考え方によって得られるものといえば、せいぜい周囲の人間からの「なんとなく人当りが良い」という程度の評価と、彼らがもう一歩こちらに近寄ってきた際に顔をしかめるほどの、悪臭に満ちた卑屈さだけだろう。

窯登山の役にしかたたない価値観

Getting Over Itに苦しめられながら怒ることが出来ない人間の反応というのは、思うに「学習性無力感」みたいなものではないのか。
学習性無力感 - Wikipedia
自身にいくつかの不運が立て続けに起こって「怒っても無駄、抗っても無駄」という目に遭い続けたおかげで、たかがゲームに対してちょっと声を荒げることすらできなくなってしまったのではないか。
そうやって身に付けた(身に付いてしまった)表面上の穏やかさなど、この可笑しなゲームをクリアする以外の人生のあらゆる場面において、損しかもたらしてこなかったではないか。

自分がもし、明らかな自分のミスで窯男をふもとまで落としてしまったときにさえ、画面の中に怒りをぶつけられるような人間だったなら、どれだけ愉快に暮らせていたろうか。
そう思いながら自分は、気付けば2週目のゲームプレイを初めていた。
少なくともプレイに集中している間は、そういった薄暗い考えから離れられるからだ。