chocoxinaのover140

ハンドルは「ちょこざいな」と読ませている

ボードゲームソムリエの本当の失敗と、人狼のあやうい魅力の話

 

ttp://t.co/T0JsbMtjtC
こんなエントリが話題ですね。
人狼そのものはもとより人狼プレイヤーにまで等しく牙をむく大変刺激的な内容で、twitterでの反応を見るに当該ブログ史上例のないアクセスを記録しているものと予想されます。

記事に対する反応は気になる人に検索して頂くとして、おおきな傾向としては
人狼の問題そのものについては共感できる
人狼が嫌いだからといってプレイヤーまで悪く言うのはどうか
こんなところでしょうか。

chocoxinaとしてはそれぞれの観点について書きたいことが沢山できちゃったのでまとめておきます。


chocoxinaのポジション

こういうのって中身を書いてれば自然と主張できるたぐいのものの筈で、それをわざわざ「一部は支持する、残りは支持しない、みたいなスタンスを理解してくれない二元論がお好きな方々」に備えるためだけに章を用意するのも癪なんですが、それはともかくこのエントリでは

前フリ
人狼はルールに無視できない問題を抱えている
・しばしば問題になる「迷惑な人狼プレイヤー」についても、ある程度は人狼そのものの問題に還元できる(上記エントリの「人狼が好きな奴なんてこんな奴だ」なんていう主張を、ごく限られた文脈でのみ認めることにもなる)

主題
・とはいえ、仮にもボードゲームソムリエを名乗る人間が、先に示したようなエントリを書くことについて断固として支持しない
人狼の問題は、ファンが感じる人狼の魅力と表裏一体であり、やり方如何で十分楽しいゲームになりうる

みたいなことを主張していきます


人狼というゲームが抱える問題

chocoxinaは人狼について「無視できない問題を多く抱えた、優れているとは言い難いゲーム」であると考えています。
人狼のここが嫌だなって話 - Togetterまとめ)こんなまとめなんかをはじめ、各所でよく言われることとしては
・10人かそれ以上のプレイヤーと、ゲームに参加できないGMを必要とし、プレイの物理的障壁が高い。
・初期に脱落するプレイヤーがどうしても発生し、十分に楽しめないことがある。
・特に「寡黙釣り」としてセオリー化されているように、ゲームに不慣れなプレイヤーは早々にゲームから除外されやすい。
・上記寡黙吊りなどのセオリーが発達しており、初心者がゲームについていきにくい
・そのせいで初心者がセオリーに通じたプレイヤーに指示されるまま動くだけのゲーム体験になったり、残人数の塩梅で重要な決断を迫られたり、それによって勝敗が決した責任を強く感じさせられることがある。
・そういうことを極端にやらかすプレイヤーに遭遇しがちである。
こんなところかと思います(人狼ファンの方はこれら一つ一つについて思うところがおありかと思いますが、もう少しお付き合い下さい)。
こうして並べてみると、上から下へ見ていくにつれ「システムの問題」から「プレイヤーの問題」になっていく風に感じられるかと思うのですが、ここでchocoxinaとしては「上記のうちプレイヤーの問題とされることについても、人狼というゲームのルールによって引き起こされている」と主張するわけです。


初心者と上級者

人狼は、初心者と上級者が一緒にやるのに必ずしも向かないゲームだ」ということについては、プレイ経験のある方にならおおむね納得していただけるかと思います。
ほぼ全てのアナログゲームがデザイン段階から前提としているやり方に従い、皆がその場の勝利のためにプレイをする限りにおいて、村人は積極的に情報を開示しない初心者を早めに吊り、人狼は多少の詭弁になびいてくれるかもしれないプレイヤーを大事に取っておくことが「正解」であることは否定のしようがなく、場がそのどちらかに強く傾けば、初心者がなにもできず初夜で釣られたり、逆に勝敗の(大抵の場合負けの)責任を一手に負わされたりするのは無理からぬことです。

そんな不幸な卓が発生してしまった場合、どこに問題があったかといえば「上級者のいる卓に入ってきた初心者・その初心者を呼び込んだ上級者」だともいえるわけですが、これももとはといえば「人狼が十余人ものプレイヤーを集めなければいけないゲームである」ために起こる問題とも言えます。
初心者のみ、上級者のみを十人以上集めることの難しさは想像に難くなく、人数の都合でやむなく練度に開きのあるメンバーを参加させてしまう人狼ファンを責めることはできません。


難しさと簡単さ

先に挙げたような不幸な卓が発生するもうひとつの理由として「セオリーの蓄積、共有が大切なゲームである」というのもあります。
これについては「プレイヤーの問題かルールの問題か」という視点から少し離れて(もとよりどちらの問題とも言えるかと思います)、「人狼の一つの問題はセオリーが発達したことでも、そのセオリーが難しいことでもなく、セオリーが実は簡単であること」なんじゃないかという、ツカミ重視かつ本エントリ中で最も脆い話をします。

例えば、人狼の一つの戦略として「ローラー」と呼ばれるものがあります。
人狼ファンの皆さんには改めて説明することでもなく、また筆者の練度の問題で誤りのある記述になっている可能性が怖いのですが、要は
「ゲーム中人狼は自分が村人であると信頼させる必要があり、そのために多くの場合『特殊な力を持った村人』を騙るので、村人としては自分がそういう村人だと主張する人を全て処刑してしまうことで、本物もろとも確実に狼を処刑する」
というような戦略です。

で、この戦略、もちろんいかなる時でも行えばいいというものでもなく、そういう作業の最中に村人が敗北条件を満たさぬように気をつける必要があります。
具体的には、今の村の総人数と、村に残っていると思われる狼の人数を考えて、昼に村人か狼のどちらか一人、夜に村人一人がいなくなると考えて、最悪の場合に村人の数が狼の数と一緒にならないように計算しなければなりません。

こう書くと(特に人狼に不慣れな人には)難しく聞こえるわけですが、実はそのためにやることといえば、たかだか二桁の引き算を数パターンくらいのものなのです。
こういった「とっつきにくいけれど、分かってしまえばなんてことのない」セオリーが多いために「村n人で狼mとすればローラー効くから・・・」みたいなハイコンテクストなやりとりが発生するといえます。

これが例えばもう少し複雑な計算を要するセオリーであれば、検算を募ったり、パターンを数えてもらったりするために考えていることを逐一報告する必要が生じ、結果そのセオリーに明るくない人にも大筋が共有され、ともすれば口を挟む余地さえ増えるために、少なくとも現状よりは置いてけぼりにならずに済むと考えられるわけです。


そして、この難しさと簡単さという話のもう一つの尺度として、上で前提としていた「考える量が多いか少ないか」の他に「正解が一意に定まるか否か」という話があります。ありますというか、むしろこちらがこの主張の本分なのですが。

先に挙げたローラーは「今残っている人狼を何人と見積もるか」が大事になってくるために、正解が一意に定まらない(=難しい)と言えるのですが、とはいえ「どう見積もってもローラーが成功する」というケースもかなりあり、そういうときは無論ローラーするのが大正解ですから、正解が一意に定まる(=簡単な)問題だともいえます。

で、そういう「簡単な」問題が解かれるとどうなるか。村人は当然ローラーを推し、人狼はどんな詭弁をこねてでもローラーを阻止し、そして初心者は「十分な説明を受けていない(何故なら上級者には簡単だから!)セオリー」と「もっともらしく聞こえる詭弁」の板挟みになり、そこでしばしば重要な判断を誤り、指差す方向のわずかな違いで自陣営を負かし、時には心ない仲間から「当然の選択を誤った」と謗られるわけです。最初に挙げたエントリで言及されているケースとよく似ていますね。

仮にここで、解かれた問題が簡単でなければ。つまり、ケースaの場合は行動Aを、ケースbの場合は行動Bを取れば良いが、今がabどちらのケースかはたかだか確率的にしかわからない、とか、行動Cはハイリスクハイリターンだが行動Dはローリスクローリターン、のような結論だったとすれば。初心者が強い主張同士の板挟みになることも、選択の結果を咎められることもなかったでしょう。


問題のあるプレイヤー

と、本筋から若干離れた上にいちばんあやうい主張を終えたところで、見出しの通り問題のあるプレイヤーの話を。
私は幸運にして、そういったプレイヤーと遭遇したことはたかだか一二度程度(あまりやらないのにその位は遭遇しているとも言う)なのですが、世の中には
・声の小さいプレイヤーに自分のやり方を強制する
・判断を誤ったプレイヤーを謗る
などなどあまりご一緒したくないプレイヤーが結構いるようで。
人狼ファンの皆さんとしては「こういうプレイヤーに会ったから人狼嫌い!」なんて意見を見かけた日には「いやいやそれは人狼じゃなくてプレイヤーの問題だよ」と言いたくなる、もしくは言っちゃうこともあるかと思うのですが、これもまた「そういう行いをルールが抑制していない」ことが原因の一つと言えるのではないかという話です。

迷惑なプレイヤーと関係のある人狼のルール要素といえば「チーム戦である」ことが最も大きいでしょうか。
簡単に言えば、人狼がチーム戦であるために、チームメイトは迷惑なプレイヤーの「道義的な問題がありつつもゲーム的に正しい」行いを咎めにくいわけです。

アナログゲーム中にプレイヤー間で行われる会話は、大きく「フレーバートーク」「議論」「交渉」の三つに分けられ(るよね?)(異論のある方もここは本筋でないのでひとまず目を瞑って頂くとして)、人狼はその中でも「議論」のゲームと言えます。
例えばある村で「喋らない素人を吊れ」とか「素人は大人しくプレイヤーBを指名しろ」とかいう【主張】がなされた場合、それに応じる言葉として求められるのは【反論】です。
しかし、もとより「ゲーム的に圧倒的に正しい」主張をしている、あるいは先述の「簡単な問題」を解いたプレイヤーに、そう簡単に反論できるでしょうか? 我々に求められるのは初心者のゲーム体験を向上させつつ、迷惑なプレイヤーの主張と少なくとも同等に陣営のためになる提案です。そんな解決が叶わず「初心者にはちょっと泣いてもらって、波風立てずになんならゲームにも勝つ」選択をしてしまう人を私は責められません。

例えば人狼が個人戦であったなら、あるいは議論でなく交渉のゲームなら、どんな正論であれひとの心象を損ねるのは文句なく悪手であり「ルールがプレイヤーを抑制している」といえます。ただ人狼はそうではなく、道義的に大間違いでゲーム的に大正解なやり方が存在してしまうわけです。
無論これは人狼に限った問題ではなく、例えばパンデミックという、プレイヤーが協力してゲームシステムと勝負するゲームにおいても、手練れのプレイヤーが全てのプレイヤーの行動を強制する、いわゆる奉行問題なんかがしばしば生じるといいます。
とはいえ「他のゲームもそうだから問題ではない」かといえばそうではなく、それこそパンデミックで手札の情報共有をほぼ無制限に許しながら手札を非公開としているのは、奉行問題を問題と認め、対処しようとしたからだと言えるでしょう(デザイナーさん本人もインタビューでそんな話をしてた気がするんだけど、どこだったかな・・・)。
また人狼については、先に述べた「簡単な問題の問題」などもあいまって、より顕在化しているとも言えるかと思います。


と、ここまでの長くも刺々しい前フリを経て、ようやく主題です。


ボードゲームソムリエはいかに失敗したか

翻ってくだんのエントリです。
chocoxinaの立ち位置としては「人狼の欠点については認めつつも、プレイヤーまで非難する姿勢については断固指示しない」といったところで、特に目新しさはないです。

人狼が好きな奴は自分が楽しむことしか考えてない」的な主張についても「議論と連帯責任のゲーム」を好むこととある種攻撃的な形質との好相性について認める面はありつつも、表面的にでもコンテクストを共有させることで人狼のキモを体験させる初心者卓の提案(人狼初心者村を立てたときのことについて - 雲上四季)や株式会社人狼にみられる心構え(人狼ゲームをやってるときに、殺伐とした空気にする奴は絶対にモテない。 | しらさかブログ)などを前にして、人狼ファンをひとくくりに語ることを到底容認できません。

あんまり向こうのカウンタ回すのも気分が良くないので記憶を頼りの要約に留めますが、かのボードゲームソムリエが人狼を嫌いになった理由として語られていたケースは
「最終版残り三人、村人の筆者と客観的に確実に狼である男、初心者の村人女性、という状況で、正論を述べる筆者と詭弁を述べる男の二者択一を迫られた女性が、最後に判断を誤って泣いてしまう」というようなものだったでしょうか。これ、私が改めて言うことでもないんですが、ソムリエの落ち度も到底無視できないんですよね。

これから主張する結論の前フリとして擁護するなら、このときのボードゲームソムリエも「人狼のルールに呑まれた被害者」と言えなくもないんですよ。
自分は間違いなく正しい、先に述べたところの「簡単な問題」を解いてる、という意識が、明らかに間違った、女性をだまくらかして勝利を掠め取るための詭弁を前にして「感動を与えるエンターテイナー」を直情的にさせ、結果として女性を泣かせてしまう。人狼が議論と連帯責任のゲームであるが故の悲劇とも言えます。
ただし、この悲劇は、ボードゲームソムリエが人狼のこういった問題を認識していれば回避できたと言えます。ここで例えば、あのケースでボードゲームソムリエが直情的になってしまうことを無理からぬ心のはたらきだと擁護しても、少なくとも当人は「自分の責任」だと認識しなければならなかった。彼が理性ある大人であれば。

具体的には、語気を弱めるだけでよかったのです。しつこくも、どうやらエントリの書き口からして事件の前段階でなかなか苛立っていたらしいことを加味し、あの状況で語気を弱めることの困難さを最大限認めたとしても、本人には「語気を弱めるだけで解決できた問題」だと認識されなければならなかったと繰り返します。

それができなかった、また今後もできないと認めるのであれば、達するべき結論は「自分には人狼の魅力を伝えることができない」といったところであり「人狼は感動の奪い合いであり、プレイヤーは皆どうかしている」というものではない筈です。

また、もう少し自身を客観視できるのであれば、ゲームの後「感動を与えることを信条とする自分が、そこに気を回せなくなる位議論に熱中した」事実を取り上げ、かように心を動かす、ある種問題でありつつも魅力的な人狼の側面について気づくきっかけになったかも知れないわけで、chocoxinaとしては、ボードゲームソムリエ最大の失敗はここ(自分がゲームに心動かされた貴重な体験を活かせていないこと)だろうと思っています。


ボードゲームソムリエはどうするべきだったか、或いは欠点と背中合わせな人狼の魅力

先にも軽く触れたように、例えば人狼の「(議論の体を取るために)ともすれば人を泣かせるくらいに白熱してしまう」という欠点はそのまま「(現実では滅多にできない)白熱した議論を体験できる」という長所たりえるわけです。
それ以外にも大人数が必要? 大の大人が大人数であそぶ貴重な体験のきっかけになるじゃないですか。
脱落があるからつまらない? 死ぬこともりっぱな仕事であると理解できれば楽しくなるらしいですよ。私はまだその域に達していませんが。
セオリーが多くてとっつきにくいし、理解するとつまんなくなりそう? 少しの勉強で込み入った話にも仲間入りできるってことじゃないですか。それに、コンテクストを十分に理解したなら箱庭の人狼箱庭の人狼―werewolf syndrome― « 人狼フリークの集い「楽々亭」にようこそ!を遊べるオマケもついてきますよ。
ほんの少しの間違いで陣営負けの責任を負わされるのが怖い? 現実の同じシチュエーションよりずっと安全にスリルを味わえるじゃないですか。
迷惑なプレイヤーがいる? それはちょっと・・・

といった感じで、人狼は欠点だらけだと言いつつも、むしろそこが愛されているのであろうことを認めざるを得ないんですよね。
趣味ならまだしも、アナログゲームでゴハンを食べる気なら、苦手なゲームの楽しみ方も知っておくべきだったんじゃないのか、といったところで、このエントリ全部iPhoneで打ってて疲れちゃったので仕舞いにさせて頂きます。

小さなアナログゲームを作ったときの話

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先の記事にもある通り、近頃「財布に入るアナログゲーム」として「This is why you lose coins」というゲームを作ったのですが、制作にあたって考えていたことなどを今後に備えてまとめておこうと思います。

全くゲーム制作経験のなかったchocoxinaが、ご覧の通りのごくごくささやかなゲームを作るに際し、何を考え、また何を考えそびれたのかの記録として、ご笑納下さい。

 

動機

まずもって、ゲームを作る意欲について「あらゆるゲームプレイヤーが一度は考えた程度」にしか持ち合わせていなかったchocoxinaが腰を上げるに至った動機がこのpostです。

 

 

その後秋山さんとの会話の中で、kickstarterで話題になったこんなゲームなんかの話をしつつ、頭の中で「どうにかゲームになりそう」だなというところまでまとまったのがこの案です

 

さすが小さいゲームだけあって、この時点で半分完成していたと言っていいような状態ですが、「コインがカードに完全に隠れることを求めている」「新しく置くコインが場のコインに触れることを求めている」という二点が最終版と異なります。

それはともかくとして、この時期にこのゲームについて考えていたことを下に箇条書きしてみましょう。

 

作るにあたり考えたこと:

・先のリンクのコインエイジのように「カードの上にコインを置く」のが少し手狭に感じられたので「コインの上にカード」のアプローチを考えた。

・また、同じくコインエイジと比べたときに、より現実的な量のコインでできそうなものを目指した。

・「場にあるコインと二点で接するように」としたのは、カードを置いたときにコインをズラしてしまった場合、場の再現が取れるようにするため。

 

吐き出した結果について、掘り下げてみようと思えた理由:

チキンレース的な趣きが出たので「チキンレースそのものの魅力」である程度の楽しさが担保されたと考えられた。

・「相手の手に合わせて、頭の中でカードの向きを変える」ような思考が生じるだろうと想像し、それが楽しそうだと感じた。

 

想像された欠点:

・カードのサイズを完璧に把握してしまったら、リプレイ性がかなり低くなるように感じられる。

・特別なコンポーネントをまったく必要とせず、いそいそと財布からコインとキャッシュカードを取り出してプレイするのは趣きがない。

 

とここまで考えたあたりで、頭でっかちになるのは悪い癖、とばかりに実際にコインを並べて考えてみます。

 

 

最初のテスト

やはり何事も実際に手を動かしてみないと分からないもので、ちょっとコインを並べてみた段階でいきなり問題が発生しました。 

それというのはキャッシュカードの大きさで、これが想像よりもずっとコインに対して小さく、全然自由にコインを置けない。

具体的には、

 ○○

○○○

 ○○

このように並べた時点で、使ったコインの大きさに関わらず必ずカードからはみだす程で、これではまったく自由度のない、最初のじゃんけんで勝敗が決まるレベルのゲームになるのは明らかでした。

 

おおもとの発想を尊重しながらゲームとして成立させるには「キャッシュカードよりも一回り大きな基準をもうける」ことが不可欠で、その為に「カードを二枚使う」などの案があり得た中、この時点でルールを若干変更しています。

 

 

コインに対するカードの起き方については、ここで現在のルールと同じところに落ち着きました。これによって副次的に「より目測が困難になる」ことが予想されたのは幸いで、最初に想定していた欠点であるリプレイ性の低さがいくらか解決されたと考えられました。

 

調整

その後、何度かテストとして一人回しをしてみました。

とはいっても一人では「ゲームとして成立するか」程度のテストしかできなかったので、やったことといえば「適当にコインを並べてみた上にカードが合法的に乗るかを予想して、的中率が高くなければゲームになるだろう」というレベルのテストくらいで、それでも何度かやってみて、まあゲームになるのは間違いなさそうだとは感じられたので、制作を継続する士気は保たれました。

 

ところでその段階で認識していた問題として「使うコインが多すぎる」というのがありました。

このルールでぎりぎりまでコインを配置すると20枚近いコインが必要となり、これは「999円を両替できない状態で持っている」場合の15枚すら超えていて明らかに多すぎたため、この時点でコインの配置規則を「新たに場に置くコインは、既にあるコインと一点でのみ接するように」と変更しています。

これにより「配置がズレたときに再現性を取る」能力が失われており、現在も配置ズレの問題については解消されていないため、ここでの決断がこのゲームに新たに一つ欠点を生じさせたといえますが、必要な決断だったと考えています。

これ以外に考えていた解決策として「カードの短編からはコインがはみ出してはいけないことにするなどして、目指す面積を狭くする」というのもあったのですが、後述するルールテキストの事情などを考えて採用しませんでした。

 

ベータテスト

この頃ちょうど、立川のペンタメローネさんのゲーム会があったので、お邪魔して隙間時間にテストプレイにお付き合い頂きました。

この時は、すぐ上に示したルールでプレイして頂き、感触としてはおおむね良好だったと感じました。

そのときに頂いたフィードバックとして「いろんな形、大きさのカードを作ってはどうか」というのがありまして、たいへん興味深かったのですが、最終的には採用していません。

採用を見送った直接の理由としてはまずコストの問題と「既存のカードを切り欠くかたちでバリエーションを作るとすると、カード裏にルールを書くスペースが狭まる」という、ゲーム外の事情が主な所です。

その代わり、そういった意見が出たことを「決まった大きさのカードを使うことによる、リプレイアビリティや実力差が出過ぎることへの不安」だと受け止め、なんとかそのイメージを払拭(実態として、イメージ以上に目測が困難であることは確信していたため)する方法を考えることを宿題としました。

 

最終ルール

先の記事で示している最終ルールでは、コインの配置について「場のどのコインとも接してはいけない」という、最初の案とは真逆のかたちを採用しています。

このかたちになった直接の理由は何と言っても「使うコインを減らす」ことだったのですが、採用にあたってはいくつか懸念がありました。

・コインを完全に離してしまうと、いよいよなんらかの事故でプレイ中のコインがズレたときに取り返しがつかなくなる

・手練れたプレイヤーが、初手でいきなり「カードの大きさスレスレ」の部分に配置するのを許すことになり、興が冷めるのではないか

一つ目はその他の要素のためなら諦めうるとして、当時僕がより深刻に問題だと感じていたのは二つ目の方でした。

結論としては「むしろそういった配置が許された方がずっと良かった」のですが、このとき僕は初期ルールからの流れで「だんだんコイン群が大きくなっていく」ことに面白さを感じていたフシがあり、そこに気づくことができませんでした。

なので「コインを適度に近づけさせるルール」として

 

こんなパターンも考えたのですが、あまりスマートでなかったのと「慣れてくれば適度に近づけた方が有利だと気づくだろう」という勘違いもあいまって結局採用することにしました。

 

本来であれば、こういった重大な変更を加えたあとにこそ、人を募ってテストプレイを行うべきだったのですが「そもそもがごく簡単な、ゲームとして成立してさえいればいいようなゲームであるので、身近な人たちにテストプレイでやり尽くされてしまうと困る」とか、「直後のミスボドに間に合わせたいけどそれまでにテストプレイの機会がない」とかいう助平心のため、この形を一応の完成とすることにしました。

 

コンポーネント(専用カード)をつくる

このゲームの構想段階から認識していた欠点として「特別な道具を必要としないため、プレイするときに情緒がない」というものがあったので、財布から取り出したときそれなりに映えるカードが必要だと感じ、ルールの調整と並行してカードの仕様について考えていました。

・印刷コストを考えてサイズは名刺大

・表面は「それだけでゲームの世界観の説明になるような」イラストとタイトル

・裏面はなるべく大きな文字サイズでルールを記載

という所まではすぐ構想できたのですが、そこまで纏めた結果「ゲームの世界設定とタイトルとアートワーク」について考える必要に気づかされます。

当初どうにか無いセンスを絞って考えたのは「コイン達がカードに隠れて財布から出ていく、というイラストに『お金がなくなる理由』みたいなタイトル」というもので、これはこれで実現できていたらなかなか趣き深かったと思うのですが、残念なことにchocoxinaには絵心が全くなく、それでも描いてみれば意外となんとかなるかもしれないという淡い期待を胸にノートに下書きをしてみた所で「イラストで世界観を表現するのは辞めた方がいいな」とすっぱり結論しました。

最終的なタイトルは"This is why you lose coins(こんな事してるから小銭無くすんだよ)"となっていますが、これは「何かゲーム世界的なものを表現するのは諦める代わりに、当初の案を踏まえながら皮肉でくすぐる要素を入れる」という妥協の産物です。

 

そこまで考えたら、表面は「タイトルをなんかおしゃれっぽいタイポグラフィ風に配置して画面を埋める」ことで完成です。

ちなみにこのとき、デザインの上下左右に余白を持たせることで、カードのサイズを少し小さく見誤らせる効果を狙っています。実際にプレイして頂くと「カードが予想以上に大きく、パスを宣言して負ける」ことが多いのを感じて頂けると思うのですが、どこまでがこの小細工によるものかは定かでないです。

 

裏面については、「出来上がったルールをどこまで少ない文字数で表現するか」が主なポイントだったのですが、そのために「場、山という概念をほぼ説明なしに示す」「相手の配置を咎める行為が『パス』という消極的な名前になる」などの欠点が生じていますね。

今となっては、もう少し分かりやすさに文字数を割いてもよかったと反省しています。

文字数制限はルールそのものにも影響を与えており、例えばひとの配置を咎める権利が常に直後手番にしかないデザインになっているのも「そうすることでその行為をパスと呼べる」というのが一因としてあります。もちろん「手練れた人の得点機会をいたずらに増やさない」ということも考慮してはいたのですが、そういううしろ暗い事情があった(他にも、席順で負けるゲームになる懸念があった)ので、先の記事に記した詳細なルールでは、選択ルールとして誰でも「チャレンジ(僕に直接フィードバックをくれる貴重な方から『パスよりチャレンジの方がいい』とお叱りを受けたことを踏まえた名前)」ができるルールも追加しています。

 

出来上がったデータは名刺屋さんに一番安いプラン(小ロット100枚が送料込みで500円未満!)で刷ってもらい、いよいよリリース(身内に配布するだけ)です。

 

 プレイして貰って

その後、ミスボドさんで顔見知りに片っ端から配ったり、そのついでにプレイしたりなどした感想としては、みなさん予想以上に名刺のサイズを見誤り、また最初からギリギリを攻められるルールも「初手から得点に絡める上に、チキンレースのヒヤヒヤ感を味わう機会が増える」というかなりいい方向に作用し、プレイして頂いた方の印象も悪くなかったように思います。

と言ってはみたものの、僕のいないメンバーでプレイされたのは確認できる限り二回程度、ネットでの言及もそのくらい、と、普及の具合としては配布の規模を鑑みてもいい結果とは言えないので、反省点もまとめておかなければなりません。それすらも(僕が今まで趣味にしてきたほとんどの創作活動でそうであったように)僕がネガティブなフィードバックを貰える域に達していないために、このゲームをよいものとして作った自分と同じ頭で独り考えてみるほかないのですが。

 

まずはルール文章のわかりにくさでしょうか。カードを手にとって頂いたときに一読してルールがわからなければ、そのまましまい込まれて財布のレシートと一緒に捨てられていてもおかしくなく、そういう点での配慮が足りなかったと感じています。

あとはわかりにくいといえばタイトルですかね。見栄えを重視した結果「話題にしにくいタイトル」になってしまったなあと思っています。

もう少し中身に踏み込んだ話をすれば、ルールを一読してみたときの「カードの大きさを覚えたらただの作業になる」というようなイメージを拭えなかったことも問題でした。実際やって貰えると、カードの大きさを覚えることは、丸いコインがランダムに配置された場の上ではそう簡単な話でないのが理解して頂けると思うのですが、それでも例えば「運ゲーのイメージを払拭できなかったパイレーツオブリベルタ」や、逆に「実態よりはるかに実力本位な印象を与えるブクブク」といったゲームに学んで、ルールの段階で疑念を抱かせないデザインというのもできたのかなと思います。なによりこの件に関しては、フィードバックを得ながら解決しきれていないのが痛い。

その他ルールの出来不出来については、そもそもプレイしてもらえるかどうかに関わる上記の問題に比べれば、些末な話だろうというのが現状の考えです。

 

感想

そんなわけで、こういう感じのことをつらつら考えながら、初めて小さな小さなゲームを作ってみたわけですが、今は「小さいゲームでも大変なのに、大きなゲームをつくるひとはもっと大変なのだろうなあ」とか「どんなに考えても、まずは手にとってもらわないと始まらないなあ」とか、他の創作をしたときと大差ない凡庸な感想を抱いています。

そういうことを乗り越えて来月頭のゲームマーケットに出展される方々には、ぜひ頑張って頂きたいですね。

財布に入るアナログゲーム"This is why you lose coins"のご紹介

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財布に入る(というか財布の中味だけで出来る)小さなアナログゲーム"This is why you lose coins"のご紹介です。

適度な暇つぶしや、飲み屋での会話のネタにお困りの方は、ぜひご覧ください。

また、以前chocoxinaに会ってルールの書かれたカードを貰った方についても、ルールの記述がより詳細になり、かつ選択ルールも追加しておりますので、お役立て下さい。

 

必要なもの

キャッシュカード大のカード一枚、10枚かそれ以上の小銭、二人から四人のプレイヤー

 

どんなゲーム?

何もないテーブルの上に「キャッシュカードの大きさ」を想像しながらコインを配置していきます。

後で場のコインの上にキャッシュカードを置いてみたときに「カードから完全にはみ出しているコイン」がないようにしましょう。

 

ルール

1.準備

ゲームで使うコインを置いておく「山」と、実際にコインを置いてゲームをプレイする「場」を決めておきます。

使用するコインをすべて「山」に置き、その中の適当な一枚を「場」に出します。

カードについては、全てのプレイヤーに「ありふれたキャッシュカード大のカード」を使うことを説明しておき、場から十分に離れたところに置いておきます。

何らかの方法(小銭を使うゲームなので「一番耳たぶの大きい人」とか!)で先手番のプレイヤーを決めてゲーム開始です。

 

2.ラウンドの進め方

手番が来たプレイヤーは「場にコインを置く」か「パスをする」かを選択することができます。

2-1.場にコインを置く

山にあるコインから好きな一枚を選んで、場に配置します。

このとき、新たに配置するコインは、既に場にあるどのコインにも接してはいけません。

また「どんなゲーム?」の項でも説明した通り、後で場のコインの上にカードを置いてみたときに、どのコインも少なくとも一部がカードで隠れるような位置にコインを置くようにしましょう。

コインを置いたら手番が終了し、左隣の人が新たに手番を開始します。

2-2.パス

前の人の手番が終了した段階で、すでに「カードを全てのコインにかかるように置く」ことができない状態だと判断したら、パスを宣言することができます。

誰かがパスを宣言した場合、現在のラウンドが終了し、終了後の処理によって「パスをしたプレイヤー」か「直前にコインを置いたプレイヤー」のどちらかが得点を獲得できます。

 

3.ラウンド終了後

誰かがパスを宣言してラウンドが終了したら、最後にコインを置いたプレイヤー(パスをした人の手前のプレイヤー)は、場から少し離れたところに置いておいたカードを、実際に場のコインの上に置きます。

このとき、何度か説明している条件を満たすように(今までと少し違う言い方をすれば、上から見たとき全てのコインがカードによって少なくとも一部隠れるように)カードを置くようにします。

カードは何度置き直しても構いませんが、場のコインを動かさないように気をつけましょう。

 

4.ラウンド勝者の決定

場にカードを置いたプレイヤーが全てのコインにカードがかかるように配置することに成功した場合は、その(カードを置いた)プレイヤーがラウンドの勝者に、どうしてもカードがかからないコインが発生してしまい、適切にカードを置くことができなかった場合は、ラウンド中にパスを宣言したプレイヤーがラウンドの勝者となり、勝利点1ポイントを獲得します。

この記事トップの画像の場合、カードがかかっていないコインが二枚もあり、これ以上カードを動かしても一番奥のコインを覆うことはできないと思われますので、パスを宣言したプレイヤーがポイントを獲得することになります。

カードがコインにかかっているかどうかなど、ゲーム中プレイヤー間で意見が割れた場合、公平にコイントスで決定しましょう。

 

5.新しいラウンドの開始とゲーム終了条件

ラウンド勝者が決定したら、手順1にそって新たに場をセットアップし、ラウンド勝者の次のプレイヤーから新たにゲームを開始します。

(このとき、場のコインを全て山に戻した後、ラウンド勝者が場に一枚目のコインを配置すると、自然に次のプレイヤーが最初の手番となりスマートです)

こうしてラウンドを繰り返し、最初に3ポイントを獲得したプレイヤーが発生したら、そのプレイヤーをゲームの勝者としてゲームを終了します。

 

ex.3人以上用選択ルール「チャレンジ」

手番中のプレイヤーがパスをしないことを選択した場合、現在手番中でなく、かつ直前に手番を行っていないプレイヤーは「チャレンジ」を宣言することができます。

チャレンジが宣言された場合、直ちにラウンドを終了し、チャレンジを宣言したプレイヤーを、通常ルールにおけるパスを宣言したプレイヤーとみなしてラウンド終了後の処理を行います。

この処理においてチャレンジを宣言したプレイヤーがラウンド勝者となれなかった場合、そのプレイヤーはチャレンジに失敗し、ペナルティとして1勝利点を失います。

なお、所持勝利点が0であるときにチャレンジに失敗しても、勝利点が0未満となることはありません。

チャレンジルールを導入する場合、ラウンド中の行動の優先順位は「手番プレイヤーのパス>他プレイヤーのチャレンジ(複数いた場合は早い者勝ち)>手番プレイヤーのコイン配置」となります。

 

(このルールを厳格に適用する場合、手番プレイヤーは、パスをしない場合には山のコインに触れることでそれを示し、また手番の終了を明確に宣言する必要があります。

チャレンジ条件を満たすプレイヤーは、手番プレイヤーが山のコインに触れてから、手番終了を宣言するまでの間にチャレンジを宣言できるものとします。

ただし基本的には、あまりルールに厳格にならず、チャレンジの意思のあるプレイヤーが、手番プレイヤーにパスをするかどうかを聞いてチャレンジを宣言する、など柔軟に対応して良いでしょう)

 

最後に

以上が、拙作「This is why you lose coins」のルールとなります。

一度プレイして頂けると、丸いコインが四角いカードの目測を誤らせる感じや、チキンレース的な趣きがお楽しみ頂けるかと思いますので、ぜひお酒の席などでプレイしてみて下さい。

あと、くれぐれも熱中しすぎてコインを無くさないように・・・