chocoxinaのover140

ハンドルは「ちょこざいな」と読ませている

【今日の検索】”北極 時間”

なんですかこれは

Google検索をしていて面白い結果がでたらブログで共有しよう、と思い立ちました

改めて今日の検索クエリ

"北極 時間"

なぜ調べた?

twitterで見かけたネタ画像で、いかついおっさんが「北極にはすべての子午線が通っているので時間を好きに決めることができる」みたいなことを言っていたので、実際のところどうなんだろうと思って。

実際どうだったか

おおむねその通りで、ただ基本的にはおのおのが母国の時間を使っているらしいです。 出典:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/北極点

余談

同じ極点である南極の場合はどうかというと、領有権だの基地だのの都合で多少複雑ですが、おおむね北極と同じようなもんでした。 出典:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/南極大陸の標準時

【Getting Over It】我々はBennett Foddyに怒らねばならなかった

Getting Over It with Bennett Foddy(iOS版)をクリアした。

store.steampowered.com

Getting Over It

Getting Over It

  • Bennett Foddy
  • ゲーム
  • ¥600

Getting Over Itとは?

このゲームをご存知ない方のために簡単に内容を説明すると、
・下半身が釜に入ったおっさんになってハンマーを振り回しながら山を登るんだけど
・ハンマーの独特すぎる操作感とえげつないステージ構成が相まって
・ちょっとでも操作をミスると容赦なくふもとまで戻される
という、ほとんど苦行じみたゲームだ。
その難易度は理不尽なほど高く、昨年末に韓国の有名ゲーマーが12時間の配信プレイの末にスタート地点まで戻され、そのショックで幼児退行する様子が撮られた動画が結構なブームになったそうである。

ところでこのゲーム、さっきの韓国ゲーマーの動画などの影響で「やると精神が崩壊するゲーム」としてもっぱら評判らしい。
Steamのレビューを見ても、腹が立って開始数十分で返金しただとか、むしろたるんだ心を鍛え直すのにちょうどいいだとか、そういうなんだかおどろおどろしいことが沢山書いてある。
近頃はやりのバーチャルYoutuber達もこぞってこのゲームに挑戦し、あるものは怒り、またある者は早々に諦めている。 じゃあ、そんなゲームをクリアしたchocoxinaは、いったいプレイ中に何度発狂したんだ、と思われる方もいるかもしれないが、個人的にはそこまで心を乱されることはなかった。 ゲーム中、進捗の半分ほどが無駄になったとき(既プレイ者向けに言えば、吊るされた桶のところから蛇の下をくぐり抜けて滑り台まで落ちたとき)には流石に大きめのため息が数度出たが、感情の起伏としてはその辺りがピークだったように思う。

そういう心持ちでゲームをクリアした自分を顧みたときに、例えば、アンガーマネジメントが良くできていたな、とか、意外と根気があるのだな、などと自身をほめてやることもできなくはないのだが、個人的にはどうもそういう気持ちになれないのである。

あのゲームに対する怒りは至極正当である

Getting Over It(通称、窯登山)がプレイする者を怒らせ、その心を折ることができるのは、プレイヤーの積み上げてきたものを台無しにしてくるからだ。
画面右にそびえたつ山肌のわずかな障害物にかろうじてハンマーを引っかける、という操作をほんの少し間違えると、窯の中の男は山を叩き、進みたいのと真逆の方向に飛んでいくことになる。
左に大きく飛んだあと素早く右の障害を掴め、という地点の左側には、スタート地点まで続く大穴が開いている。
ゲーム中になにかこちらに対して積極的な働きかけをしてくることこそないが、このゲームは明確な意図をもって、プレイヤーにとって起きて欲しくないことが何度も起こるように設計されているのだ。

こういった困難に相対したとき、ほとんどの人はゲームに対して正しく怒ることができる。
例えばある人は、画面の中の唯一のキャラクターである窯男に対して、なぜ思い通りに動かないのだと怒る。
別の人は、障害物そのものに対して怒る。
また別の人は、この悪意に満ちた世界を作り上げた製作者に対して怒る。
それは極めて自然な反応であるように思える。

自分は、それらへの怒りをどうにか抑えたわけではない。
そもそも怒ることができなかったのだ。

自己責任という正論

このゲームにおいて、障害を登るための方法は明らかであるか少なくとも推測可能で、またそこでどういうミスをした場合に落下させられるかは十分に予測できる。
だから、ミスによって大きく落とされたとしても、気のゆるみを言い訳に十分な備えをしなかった自分が悪い。

このゲームにおいて、画面上の誰も自分のプレイを邪魔することはない。
だから、そもそもミスは誰の責任でもなく、100%自分が悪い。

このゲームにおいて、プレイヤーが大きな失敗を犯すたび、作者の声で過去の偉人たちの失敗に関する名言が読み上げられる。
我々を励ますような内容しか語っていないのだから、もしそれによって気分を害したとしても、ひねくれた捉え方しかできない自分が悪い。

そもそも、このゲームをプレイし続け、クリアしなければならないなどと誰が強制したわけでもない。
だから、プレイ中に感じる不快についてはすべて自分の責任である。

ほかの健全なプレイヤーたちが正当に怒るような場面に出くわすたび、こういう考えが怒りに先んじて頭をよぎる。
そして、ふう、と一つだけため息をつき、なにか「怒りだったかもしれない感情」が心の奥底に閉じ込められている気配を無視しながら「一度クリアした箇所は何度でもクリアできる」「今の場所の失敗の理由が分かったのは大きな進歩だった」などと己に言い聞かせつつまた山を登るのだ。

それは一見殊勝で、健全で、誉め称えられるべき考え方のようだが、自分はまったくそうは思わない。
本来、たかがゲームでまで不要な自己責任論で己を縛り、自身を責め続ける必要などないはずなのだ。
たかがゲームでまで粛々と自分の問題をかえりみ続けるような、いわば自虐的な考え方によって得られるものといえば、せいぜい周囲の人間からの「なんとなく人当りが良い」という程度の評価と、彼らがもう一歩こちらに近寄ってきた際に顔をしかめるほどの、悪臭に満ちた卑屈さだけだろう。

窯登山の役にしかたたない価値観

Getting Over Itに苦しめられながら怒ることが出来ない人間の反応というのは、思うに「学習性無力感」みたいなものではないのか。
学習性無力感 - Wikipedia
自身にいくつかの不運が立て続けに起こって「怒っても無駄、抗っても無駄」という目に遭い続けたおかげで、たかがゲームに対してちょっと声を荒げることすらできなくなってしまったのではないか。
そうやって身に付けた(身に付いてしまった)表面上の穏やかさなど、この可笑しなゲームをクリアする以外の人生のあらゆる場面において、損しかもたらしてこなかったではないか。

自分がもし、明らかな自分のミスで窯男をふもとまで落としてしまったときにさえ、画面の中に怒りをぶつけられるような人間だったなら、どれだけ愉快に暮らせていたろうか。
そう思いながら自分は、気付けば2週目のゲームプレイを初めていた。
少なくともプレイに集中している間は、そういった薄暗い考えから離れられるからだ。

【落ちのない話】おみくじ

どうしようもなくツイていない時というのは、自分が「ただ単にツイていないだけ」だと認めるのに苦労する。
客観的な事実――今この身に降りかかっている不幸がさながらTRPGファンブルのように脈絡なく訪れただけのもので、しかも次振るダイスがまたファンブルしない保証もない――というのは、弱った心にとってあまりにも毒なのだ。
そういうとき人は、例えば陰謀論を紡いで自分に不幸をもたらす敵を見出したり、とにかく自分が悪いに違いないと思い込んで終わりなき自己嫌悪に陥ったり、人知を超えた存在と取引をして、次こそ不運に見舞われないよう約束を取り付けたりする。

去年の夏から1年ほどはchocoxinaもずっと不運続きの状態で、そのときの自分は自己嫌悪を遠ざけるため、神を頼るようにしていた。
職場近くの神社で、プロトコルに沿って手水をつけながら心を落ち着け、たた漠然と平穏無事を願って賽銭を投げ、機械が出すおみくじを引く。
耐えがたい不運に見舞われたり、不運が強烈に予感されたり、ただ漠然と悲しかったりするたびに、それを繰り返した。

そのとき引くおみくじが多少いい結果だったからといって、すぐさま心が落ち着くことはなかった。
おみくじというのは、たとえ大吉でも一つや二つ我々をいさめるようなことが書いてあるもので、弱っているときにはそういう所ばかり目につくのだ。
それでも、おみくじを引くのをやめるつもりはなかった。
思うにあれは、一種のカウンセリングだったように思う。
実りのない仕事や、ままならない人間関係、そういったものについての言葉にならない気持ちを境内に持っていくと、芯を食ったような食っていないようなアドバイスがもらえる。
人に相談するのがたまらなく苦手な自分にとって、神社はキャバクラやカウンセラーよりもずっと暖かい存在だった。

そんな自分が近頃とんとおみくじをひかなくなったのには理由がある。
今年の夏の終わりごろ、転職先が決まった自分は、普段よりいくぶん晴れやかな気持ちで神社に赴いた。
転職後の平穏無事と、ちょっと図々しい諸々をお願いした後、いつものようにおみくじを引くと、それまで見たこともない「凶」が出てきた。
それを見た自分自身は、拍子抜けするくらい心穏やかだった。
あはは、凶だって、と笑いすらした。
そんな自分に気が付いたとき、ああ、もうおみくじをひかなくても大丈夫だな、と思ったのだ。

そうして無事転職を果たし、割合気分よく仕事をしていたchocoxinaであるが、このところやはり不運続きだなあと思いながら当時を思い返すと、夏に引いた「凶」のおみくじの内容が一つずつ実現されているように感じられてきた。
自分はいま、神をよりシビアに信じ始める自分自身を止められないでいるし、またおみくじを引きにいきたい気持ちが芽生え始めている。