「診療時間表」に見る医者の人間らしさ
医者はこわい。
ちょっと血かなんかを見ただけでこちらが日々酒浸りであることを見抜いてくるし、針や冷たい板や苦い粉で攻撃してくるし、さらに相手によっては、こちらが「風邪ひいたみたいで」とつぶやくだけで機嫌を損ねさえする(なぜなら風邪かどうか判断するのは医者にのみ許された高度な仕事なので)。
そんな「無機質な白衣で屹立(きつりつ)する高学歴」こと医者であるが、彼らの存外に人間らしい一面を、いわゆる町医者の軒先で見ることができる。
診療時間を見やすく記した表。
これというのが、一つひとつ見比べてみると単にバリエーションに富んでいるだけでなく、デザインから何から、今この姿に至るまでに介在したであろう人間のさまざまな思いが感じ取れるのだ。
一つ見ただけではピンと来ないだろうから、これからいくつか紹介しよう。
(以後、歯医者や動物病院などなどの診療時間表についても、特に区別なく紹介していく)
「修正」に見る価値観
まずわかりやすいのは、完成した診療時間表に、後から「修正」がほどこされているパターンだ。
せっかくそれなりのお金をかけて印刷したであろう診療時間表を修正する、というイレギュラーに相対したとき、見た目にこだわるのか頓着しないのか、そもそも失敗と断じざるを得ない状況になってしまうのか。こうした対応の違いには、院長の個性や診療に対する態度さえ垣間見えるようだ。
個人的には一番最後、カレンダーを掲示するタイプの病院に温かみを感じるし、ぜひ診療してほしい、と思うのだが、あいにくここは動物病院。
どうにか筆者のような資本主義の犬も診てくれないだろうか。
透明なガラスへの非合理的なこだわり
そもそも、だ。
開業医として一生を過ごすつもりであれば、そのキャリアの中で働ける曜日や時間はいかようにでも変化しそうなもの。
それならば、診療時間表は始めからもっと「後から修正が利くつくり」にしておけばいいのに、と思わないこともない。
ただどうやら、あの修正しにくそうな構造の背景には、つまらない合理性などではない「何か」が優先された、人間らしい選択があるようなのだ。
ここまでにもいくつか見たような、透明なガラスに描かれた診療時間表。
だがよく見ると、
表面はなんと不透明。そこに文字だけでなく影まで印刷することにより、ガラスが透明であるかのように見せかけているのだ。
わざわざこのような表現を選択しているのはおそらく、開業医の間で「診療時間表といえば、透明なガラスに白か黒の文字で描かれているもの」というコモンセンス、あるいは流行が共有されているためだろう。
この仮説を補強する例が他にもある。
これもよく見ないと詳細がわからないかと思うのだが、採光性の高そうな透明なドアに白文字で診療時間表が描かれており、しかしそれでは見にくかったためか、後ろにグレーの布が後付けされているのだ。
一つのガラスに「光を通す」ことと「光を反射させ、描いてあることを目に届ける」ことを両立させようとしたらこうなることは予測できたはず――とまでは言わないが、もしここの院長に、診療時間表はガラスに描くもの、というこだわりが備わってさえいなければ、この不幸は免れたのではないか、と考えさせられる。
例外処理に見る、個性と機転
これまで多く見てきた「縦軸に診療時間、横軸に曜日」のフォーマットは、その時間・その曜日に診療をしているか・していないかを一目で判別することができる。
ただ一方で、それ以上の込み入った情報をこの体裁で示すためには、ちょっとした工夫が必要になる。
最後のやつなどは、二軸の表に納めるよりももっと適切な方法があるのではないか、と思うのだが、これももしかすると「診療時間表とはこういうもの」という固定観念によってイノベーションが阻害された結果なのかもしれない。
医者、こわくないかもしれん
診療時間表を詳しく見ていくことで、泥臭い手作業や、常識・流行にとらわれた非合理など、図らずも「医者のカワイイところ」を見出すことができた。
多少健康に気を使っていても運が悪ければ容赦なく医者にかからされかねない昨今、これを機になるべく偏見を持たずに接していきたい。
偏見を持たないどころかむしろ感謝すべきである、という意見についてはまったくその通りだと思います。