妄想大富豪について考える
はじめに
デイリーポータルZで「妄想大富豪」なるゲームが紹介されました。
http://portal.nifty.com/kiji-smp/170607199828_1.htm
詳しい内容は上の記事を読んで頂くものとして、厄介なゲーマーであるところのchocoxinaとしてはこのいかにも楽しげなゲームについていくつか気になる点があるので、自分のためにここに書き残しておきます。
基本的なルール
まず、記事に記載のある妄想大富豪のルールは以下です。
・基本は大富豪だが、何を出してもOK
・4枚同時出しによる革命(強弱逆転)はなし
・同じ種類のカードの同時出しは3枚までならOK
・出せるカードがないときはパス
・出せるカードがあるときのパスは二回までOK
・カードを記録するホストと、プレイヤーに別れる
・プレイヤーの人数は三人以上だとより盛り上がる
※パスとアウトの上限はプレイヤーの慣れで調整
ここに記事中のリプレイを参考に、不足したルールを補うと以下のようになります。
・もう存在しないカードを宣言したり、出せるカードがあるときのパスが規定回数を超えたりすると脱落。つまりこのゲームは「一人負けを決める」もしくは「最後の一人になるまで脱落者を決める」ゲームである。
・カードの所持数という概念はない。つまり誰が何枚カードを出してもよい。
・全てのカードが宣言されたときに関する取り決めは存在しない(っぽい)。
記事中ではいかにも記憶力バトルロイヤルという様相の白熱したゲームが繰り広げられたこの妄想大富豪、こんなに楽しそうなのにchocoxinaは一体何を気にしているのかというと、次項のようなことです。
無敗の戦略
勘のいい人はもう気づかれたかもしれませんが、このゲームには「自分が脱落する可能性を限りなくゼロにする」戦略が存在します。
- 最初に自分のターンが来るまでに出たカードを覚えておく
- 最初に自分のターンが来たら(ほとんどの場合シングル出しで回ってくる筈です)すぐさま「ジョーカー」を宣言する。
- 全員パスをするので、それ以降は「2を三枚、Aを3枚、Kを三枚・・・」と、そのとき出せる最も強い組み合わせを気がすむまで宣言し続ける。
こんな戦略を取れば間違いなくゲームは冬の阿寒湖のように冷え切ったものになるでしょうが、ともかく脱落する可能性を限りなく低くすることができます。
気の知れた仲間内でプレイする分にはお互い空気を読んでこの戦略を取らないようにすればいい(後述するように、実はそうとも言い切れないのですが)としても、このゲームはこういった戦略が存在することで「どうしても負けたくない人間が一人混じるだけでゲームが冷え切る」というリスクを抱えているといえます。
もちろんこの戦略、作者のネルソン水嶋さんも認知しており、以下のようにコメントしています。
ネルソン水嶋 on Twitter: "ちなみに先手で最強カードを出しつづける策は当然把握してるのですが、出したら勝ちのゲームではないので、そもそも意味がないのです。サッカーでボールを抱きかかえてゴールに走り込む行為。初手で最強カード出したら即アウトってやってもいいしね。 #妄想大富豪の話"
ただし、この発言を以ってこの問題はハイ解決、とは言い難く、依然として「戦略上正しい行いによってゲームがつまらなくなる」可能性が残っています。
まず第一に、ここでは上記の戦略(以下、全出し戦略と呼びます)は「意味がない」と断じられていますが、前述したとおりこの戦略にある程度の意味があることは明らかです。カードが全て出された場合の処理が不明瞭なので細かなことは言えませんが、少なくとも妄想大富豪は脱落者(すなわち負けるプレイヤー)を決めるゲームですので、そこで自分が脱落する可能性を0にできるということは、全出し戦略に「五分五分以上」の利益があることを意味します。
次に、先のpostで示されている「初手で最強カード出したら即アウト」という代案はほとんど意味を成しません。初手で全出し戦略を行わないならばその次以降にそれに極めて近い戦略を行なう権利を依然として有するからです。
空気を読んでも
また、参加するプレイヤーが全員空気を読んで全出し戦略を行わなかった場合にも、実は似たような問題が発生しえます。
このゲームは脱落者を決めるゲームですので、大きく分けて二つの戦略が存在します。積極的に他人が脱落するように仕向ける「攻撃」か、なるべく脱落しないようにプレイして全員が脱落するのを待つ「防御」かです。
このゲームにおいて「攻撃」とは「他人が覚えにくい数字を宣言すること」だと言え、また防御は「自分が覚えやすい数字を宣言すること」だと言えるでしょう。
そしてこのゲームは「攻撃」よりも「防御」が強いゲームなのです。それは何故か。
まず第一に一般論として「他人に覚えにくい数字」というのは、ほとんどの場合「自分にも覚えにくい数字」です。つまりこのゲームにおいて誰かを攻撃すると、自分も攻撃されたのと同等に近いリスクを背負うことになります。
そして第二に、このゲームにおいて「防御」は極めて万能です。ここで妄想大富豪における防御とは何かをよりハッキリさせておくと、それは「最も強いカードを覚えておき、それを宣言すること」です。
(先の記事中では、例えば3、4、5、6、という風に足並みを揃えることが無難なように書かれていますが、それが誤りだという主張を内包します)
このゲーム、例えば序盤のプレイヤーが「3!」「4!」「7!」「10!」などとてんでバラバラの数字を宣言するからといって、そのあたりの数字を闇雲に覚えておくことはあまり役に立ちません。仮に今あなたが「今回のゲーム中、5が一度も出ていないぞ!」ということを覚えていたとしても、自分の前のプレイヤーが「7!」と宣言したならば、あなたは8以上の数字を宣言しなければならないからです。
しかしここで、あなたが「ジョーカーと2は全て出ていて、Aは2枚残っている」ということだけ全力で覚えていたとしたらどうでしょう。直前のプレイヤーがどんな数字を宣言してきても「A!」と悠々宣言し、全員パス(または誰かが2を宣言して脱落!)するのを確認した後で、いくらでも「今まであまり出ていなかった気がする数字」を54枚のカードの中から思い出して宣言することができます。
2からクイーンくらいまで強いカードの出方さえ覚えていれば自分の手番を無難に過ごすことができる。これがこのゲームにおいて防御が万能である理由です。
そして今一度思い出してほしいのですが、このゲームで誰かを攻撃することはリスクになるのでした。するとこのゲームで最も有利な立ち回りは「自分は防御に徹して、誰かが攻撃で自滅するのを待つ」ことだといえるわけです。
うわー、という感じでしょう。一番つまらない戦略を取ったしょっぱい野郎が一番有利になってしまうのです。
※もっと言えば、このつまらない防御戦略のもっとも堅実なバリエーションが、先に挙げた全出し戦略だと言えます
※さらにいえばこの防御戦略は「結局全出しに近いことをすればいいんじゃん」というところを巧妙に無視した産物なので、多少の誤りは多めに見ていただきたいところです
で、そんな戦略があるから何だというのか
ーーと、ここまでいかにも妄想大富豪を批判するかのような物言いを続けてきましたが、妄想大富豪というゲームにこのような戦略が存在することは、必ずしもそのゲームの価値を損なわないと考えています。
先のリプレイでは、ある男性がゲーム中「13より上のカードが全て出ていたかどうか」でおおいに悩み、結局不正なパスをして失敗しています。これは先に挙げた防御戦略の観点からいってかなり下手を打っているわけですが、それはそれとして記事中の男性はたいへんに楽しそうです。
要はこのゲーム、「戦略だの何だのと言い出さない限りは超絶楽しいゲーム」だと言えるわけなんですね。野暮なこと言ってんじゃねえよchocoxina、というだけの話なわけです。
とはいえ野暮で厄介なchocoxinaはどうしても「ゲームがしらけるリスク」が気になってしまう性分で、じゃあなるべくしらけないような改良案を考えてみよう、というのがこの先の話になります。
代案1.チャレンジルール
このゲームが「脱落者を決める」ゲームである限り、全出し戦略や防御戦略のようなしょっぱい手段が有効であり続けるので、すこしルールを加えて「勝者を決める」ゲームに変更してみるのはどうでしょうか。
まず変更点として、存在しないカードをコールしたり、まだ出せるカードがあるのにパスを行なうなどの不正な宣言をしても脱落しないものとします。
そのかわり、自分の順番が回ってきていないプレイヤーは、他のプレイヤーが不正な宣言をしたと思ったらいつでも「ダウト」と言うことができます。
ダウトが行われたらすぐさま答え合わせをし、宣言が不正だった場合はダウトしたプレイヤーの勝利、宣言が不正でなかった場合はダウトしたプレイヤーが脱落してゲーム続行、というわけです。
ただ防御ばかりしていては他のプレイヤーが勝ち抜けてしまうほか、危険な数字を宣言するリスクが若干下がるため防御戦略のメリットが減り、また勝者のみが決まるルールにすることで、全出し戦略は「負けない戦略」であることよりも「勝てない戦略」だという側面が強調されます。
2.半妄想ルール
先ほどとは別に、全出し戦略や防御戦略をなるべく簡単なルールの追加で潰すことによって、妄想大富豪本来の楽しさを生かすルールを考えてみます。
まずプレイヤーに、本物のトランプを五枚ずつ程度配ってしまいます。
そのトランプが全てなくなるまで通常の大富豪を行なったあとで、続きを妄想大富豪で行うのです。
序盤に思い通りのカードが出せなくなるために、防御戦略や全出し戦略は極めて行いにくくなるでしょう。
3.逆大富豪ルール
通常の大富豪は手札を全て出し切ったら勝ちですが、その逆のルールを妄想大富豪に追加します。
つまり、4人プレイなら一人あたり14枚のカードを持っているものと仮定し、一人が14枚目のカードを宣言して(仮想の手札が空になって)しまったらそこで脱落とします。
これにより、一人で何度もカードを出す全出し戦略や、一ターンに少なくとも2枚のカードを出さなければならない防御戦略はかなり不利になるほか、自分が最強のカードを出さなくて済むように立ち回る戦略性が追加されます。
終わりに
さて、こうして人様がせっかく考えたゲームに難癖をつけ、テストプレイもしていない代案を賢しらにも提示したわけですが、せっかくなのでこの記事を読んで妄想大富豪に興味を持たれた方はぜひプレイして頂き、ちょっと物足りないなと思った方は上記のバリエーションを試して頂くとよろしいかと思います。
【落ちのない話】相席屋に行ったことがない
一般に、新しいことに挑戦するときは、余計なプライドを捨てるべきだ。
その方が先人のアドバイスなどを素直に受け入れられるし、自分の実力を過大評価して失敗することもない。
何事においても、初めのうちは謙虚であることが成功の秘訣と言えるだろう。
さて話は飛んで、俺ことchocoxinaは「相席屋」に行ったことがない。
相席屋がどういう店かご存知ない方は上のリンクを参考にして頂くとして、まあざっくり言えば来店する男女の相席を斡旋して出会いの場を提供する飲食店である。
長いこと恋人のいないchocoxinaとして、そう無関心ではいられないたぐいの店ではあるのだが、繰り返す通りこの店には行ったことがない。それは何故か。
chocoxinaは概して臆病なので、こういう変わった業態の店に行こうかと考えるとき(そう、一度訪店を検討したことがある)には、店のシステムなどをしつこいくらいに調べることにしている。
先の公式サイトには利用方法が詳しく書かれたハウツーが用意されていたのだけれど、それを読み進めるうちに、なんというかこう、打ちひしがれたのだ。
このページ、最初のうちは特に、繊細なchocoxinaからしてもなんともない内容が続くのだが、引っかかったのがstep4。
タイトルが「お礼も忘れずに」だ。
この項目を読み進めるうちに俺は、ああ、そうか、と思い至る。このような店に行くというのは、店側に「お礼もできない奴」だと思われることなのだなと。
屈辱、という言い方が適切かどうか分からないが、例えるなら男子トイレに行ったときに、小便器の上に「一歩前へ」「トイレは清潔に」などの張り紙に紛れて「ちんちんはちゃんとしまいましょう」と書かれていたみたいな衝撃だった。バカにしてんのか、と喉まで出掛かった(もっと言えば、chocoxinaが最初に確認した当時、あのページはカラテカ入江をイメージキャラクターにしたクソちゃらいもので、よりみじめな気持ちにさせられたものだった)。
とはいえ、だ。考え直してみれば事実chocoxinaにはずいぶん長いこと恋人もいないわけで、なにか性格に重大な欠陥がある可能性について真剣に検討しなければならないところだ(性格だけでなく見た目に問題があることも否定しないが)。
そんな自分、それこそ性格に重大な欠陥を抱えていながら、あまつさえその自覚すらない現在の自分は、果たして他人に「挨拶もできない奴」だと思われたときに「バカにしてんのか」などと言い返せるような高尚な人間だろうか? それこそ思い上がりで、新しいことに挑戦するに際しての謙虚さが足りていないのではないか?
ーーいやでも待ってくれ、ただでさえ人様に誇るところのない自分が「人並みに挨拶ができるという人として最低限度の自負」までかなぐり捨てなきゃならないなんて、そんなのあんまりではないか、そんなゴミクズみたいな所まで自己評価を落として、どうやって女性に顔向けしろというのかーー
そんなことを考え続けて結局そのときは訪問を諦め、そのまま今日に至る。
果たして自分は謙虚さを欠いたのか、それとも辛うじてゴミクズのような卑屈から踏みとどまったのか。どちらにせよ未来のパートナーに申し訳の立たぬ性格で痛し痒しである。
【落ちのない話】天使でも女神でもない歌声を聞いた
出勤途中に毎日通る住宅街で、前方に見慣れない親子連れを見かけた。
小学一、二年生だろうかという男児はこちらに背中を向けながら頭をぐったりと垂れ、腕や脚を不自然な方向に曲げて、右隣の母親に脇を抱えられながらどうにか歩いていた。背中越しにも、何かしらの障碍を抱えていることが容易に見て取れた。
隣の母親は、身長がその男児と頭2つ分も違わないような小柄な女性だった。俺は反射的に「大変そうだな」と思った。
ゆっくりと歩く二人を追い越しながら、彼女らの方を振り向かないように、彼女らを自分の下卑た好奇の目に晒さないように気をつけていると、女性の声が聞こえてきた。「さんぽ」を歌っていた。
月並みに形容すれば、その声は天使のようだった。
人の声から受ける印象などというのがまったくアテにならないことは知っているし、俺は世の母親に女神的な母性を期待するような乳臭い人間ではない。自分自身が声で、見た目で、表情で誤解を受けることの多い人生を送ってきたし、俺の母は自分が小学校に上がる前に家を出ていった。今日俺が彼女の声に抱いた感想というのはつまり「子どもの障碍に負けない母の愛」みたいな夢想から来るものではなく、例えばアイドルが歌うのを聞いて「ナントカちゃんの歌声は天使」などと言うのと大きく変わりないもののはずだ。少なくとも、変わりないものでなければならない。
キーを四度下げて、囁くように穏やかに歌う。歩こう、歩こう、私は元気。合間合間に男児の声が聞こえる。その背丈に不釣り合いなほど低い声で呻く。彼女にはその呻き声の機微が分かるのだろうか。今、喜んでいるな、と感じられるのだろうか。歩くの大好き、どんどん行こう。
彼女に女神のような母性や愛を期待してはならない。ただでさえ子育てというのは苦労が多いと聞くし、まして子どもが障碍を抱えているとなれば尚更だろう。ときには子どもを殺したいほど憎むようなことすらあって不自然ではない。彼女がどんな気持ちで「さんぽ」を歌ったのか、俺には知りようもない。
それでも、彼女に育てられたあの男児は幸せだろうな、と思わずにいられなかった。たかが歌声から勝手に彼女の愛を想像したわけだ。言い訳すれば、それほどの声だった。
俺は彼女に、自分の「性的な妄想のネタにするよりも下卑た行い」を内心で詫びながら早足でその場から逃げた。耳に残る彼女の声を忘れようと努めた。彼女の声に感じ入ることは、感動ポルノの消費にほかならないと思ったからだ。――考え過ぎだろうか。