chocoxinaのover140

ハンドルは「ちょこざいな」と読ませている

【落ちのない話】豊かさ

今日コンビニで買い物をしたとき、レジで現金を全く持ち合わせていないことに気づき、慌ててsuicaで支払いをした。

レジで恥をかかずに済んだことに安堵しつつ黒烏龍茶を飲んでいると、ふと「自分は裕福になったなあ」と感じた。

 

断っておくと、chocoxinaは客観的に見て、まったく裕福なほうではない。

たとえば今の給与で結婚して子供を持つ、などということが到底考えられない程度の、典型的な安月給だ。

それでも、やはり自分は裕福になったと思うのだ。

 

数年前、chocoxinaは客観的に貧困といえる部類だった。

時給は最低賃金、1日の労働時間は過不足なく7時間。給与明細は見るも無残だった。

その状態で東京で一人暮らしをし、奨学金の返済までしていた。

冷蔵庫やガスコンロを買うだけのまとまった金は用意できなかった。電子レンジでパスタやもやしを蒸かして腹を膨らませ、数日に一度の外食を心身の栄養とした。

 

自分はこのまま年老いて死ぬのだ、と思い続けていた生活、それを好転させようと思えたのは、何がきっかけだったか。

ほとんど偶然のようなものだったと思う。

ある春の日の朗らかな気候に、新しい出向先の小ぎれいなオフィス、永遠のような待機命令と、ネットサーフィン中に見かけた広告、そういったものがたまたま積み重なったある日、転職というのを試してみよう、と思い立ったのだ。

 

そうして職を変えたり、社員として出戻ったり、また転職を試みたりした数年の間に、気づけば生活はかなり楽になった。

隙間風吹きすさぶ六畳風呂なしの部屋は、一軒家を区切ったシェアハウスになり、ついにはロフト付きのワンルームになった。

家には冷蔵庫はおろかテレビまでそろい、学生時代から使い続けたパソコンを買い替えることさえできた。

そうして今日、自分の財布にいくら入っているか、いっとき忘れるまでになったのだ。

 

聞く話では、人間は貧困に陥るとIQが下がるという。

明日を生き延びるために脳を使い続けるからだそうだ。

いまchocoxinaは、財布の金を1円単位で覚えていたあの時の自分よりも賢くなっているだろうか。

それはとても幸福なことのように思えた。

外国人アルバイトの怪

ここ数年、コンビニや飲食店で外国人の店員を目にする機会が明らかに増えた。
かつては彼らのたどたどしい日本語や、横柄に映ることもある態度などに戸惑うこともあったが、今ではすっかり生活の一部である。
しかし、彼らについてどうしても腑に落ちないことが一点だけある。

彼らは「接客」を任されすぎではないかということだ。

どういう意味かといえば、例えば牛丼チェーン。 日常生活を心配させられるほどにたどたどしい日本語の店員とどうにか意思疎通をはかり、三種のチーズ牛丼のオーダーに成功したあとで、彼の「オーダー入リマス」という声に応える厨房に目をやると、たいてい日本人の、それも学生と思しきアルバイトが多くいる。

いくらなんでも、その仕事の振り分けは逆にすべきではないかと思うのだ。

外国人は接客をするな、というつもりでないことは繰り返させてもらうが、それにしても適材適所というものがあろう。
客とより円滑なコミュニケーションが取れる従業員と、そうでない従業員がいたとき、どちらが接客スタッフとして適材かは明白だ。
なぜこのようなミスマッチが多く発生するのか、理由を考えてみたい。

1.日本語の勉強を兼ねている

いかにもありそうな理由だ。外国人接客スタッフは自らをより多くの日本語話者と触れられる環境にあえて置き、以って日本語の訓練としている、という仮説である。
しかし果たして「セアブラオニモリ」だの「ブーテーイッチョー」だの「イーガーコーテル」だの言う環境が日本語の勉強になるかという疑問は残る。
そういった冗談はともかくとしても、個人的には接客業というのが、それこそ面接を通る程度に日本語を使える外国人にとって、それ以上の上達を得られる環境だとはどうも思えないのだ。

2. ホールスタッフは人気がない

それゆえとにかく金が必要な境遇のひとたち(アルバイトの外国人は少なくとも日本の学生より金が必要だろう)が接客にあたることが増える、という仮説だ。
しかしそもそも両者にそこまで人気の差があるかどうか微妙なところだ。
個人的にはキッチンのほうにむしろ恐ろしく激務なイメージがあり敬遠したい。

3.意外にもキッチンはホール以上にコミュニケーション能力を要する

これは考えにくいが、ホールにおけるコミュニケーションというものを考えてみると以下の新たな仮説が浮かぶ

4.日本人従業員との関係

一番あってほしくなく、またchocoxinaが個人的に一番ありえそうだと思っている理由である。

例えば、日本語が上手に使えないがゆえに店内の「政治」に負けて、面倒な接客を押し付けられている、だとか。
あるいはもっと露骨に、忙しいキッチンでたどたどしいコミュニケーションが疎んじられているとか。
こういうことを考えるのは他ならぬchocoxinaが外国人を差別しているからだ、というお声があるかもしれないし、それを強く否定できるほど清廉な人間でもないが、それにしても無視できない仮説だと思う。

このほかに考えられる理由があるとしたら、以下だろうか。

5.chocoxinaから見えないところに外国人キッチンスタッフがいる

こんな所だといいのだけれど。お後がよろしいようで。

【落ちのない話】まともなハンバーグ

Sガストのハンバーグがリニューアル記念に割引されていたので食べてみたのだが、これが思いのほか旨かった。
全体的にふっくらとして柔らかく、かつひき肉の食感も残っていて、ああハンバーグの旨さってこうだよな、ということを思い出す味だった。

これは、Sガストのハンバーグがそれだけ旨いというよりもむしろ、chocoxinaのハンバーグに対するハードルが下がりすぎていたがゆえの感動だったように思う。

そもそも、最後にまともなハンバーグを食べたのはいつだったか。

まともなハンバーグを食べられるところというと思いのほか限られていて、専門店かステーキハウス、それからいわゆる洋食屋といった辺りで、どれもそこかしこにあるタイプの店ではない。

この中で一番見かけるのはステーキハウスだが、そこでハンバーグを食べることはめったにない。
考えてほしいのだが、例えばちょっと財布に余裕があるからと浮ついた足取りでステーキハウスに入ったとして、その時注文するものといったら当然ステーキだろう。
ハンバーグなどというどこでも食えるものをわざわざ頼んだりしない。なにせステーキハウスに入ったのだから。

洋食屋も然りだ。洋食屋に行って食べたいものが何かは人によって違うだろうが、タルタルソースの乗ったエビフライや、気の遠くなるほど煮込まれたビーフシチューなどが並ぶメニューの中で、どこでも食べられるハンバーグはどうしても見劣りする。

我々はどこでも食べられるがゆえに、ハンバーグを軽んじてきた。

そうして、積極的に選ばれることのないたぐいのハンバーグばかり食べてきた。

たとえば、居酒屋のランチで、社食で、仕出し弁当で、スーパーの安売りで。

そうやって食うハンバーグは大抵ぺたんこにつぶれていて、カマボコに近いような食感をしている。

味のほうも、例えばお菓子の中に「イチゴ味」を名乗るまったくイチゴとは違う味のものがあるように、あれらのハンバーグはいわば「ハンバーグ味」としか形容できない、動物性たんぱく質と何らかのツナギが混然一体となった味がする。
そしてその上には、そのハンバーグ味を覆い隠すためか、やたらと味の濃いソースがかかっているのだ。

そういうものばかり食べるうち、我々はハンバーグのことを「大してうまくないもの」だとみなすようになっていったのだ。

 
ちかごろインターネットでは「さわやか」のハンバーグが人気だが、あの評判のよさの何割かは「久しぶりにまともなハンバーグ食った」という感動によるものなのではないか。

少なくともSガストのハンバーグだってそれなりに旨かったし、さわやかのために静岡へ行く前にいちど、近所のステーキハウスでまともなハンバーグを食べてみるのもよいかもしれない。

いやもちろんchocoxinaだってさわやか食べてみたいですけど。
静岡遠いじゃないですか。